2021年8月9日(月)
『わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り……。』コロサイ人への手紙1章3節
コロサイ教会は7節にもあるように、エパフラスによって伝道され、できたものである。
この教会にも一つの問題があった。
グノーシス派と呼ばれる、初代教会を揺さぶった異端の一つが起きてきたことである。
グノーシス派の正体については十分明らかにされていないが、ユダヤ教の律法を守ることと、天使や太陽などを結び合わせて、そこに霊力というものを信じていこうとした群れのようである。
イエス・キリストを信じるとともに、この世の中にはいろいろな霊力が働いており、その影響のもとに人間はいるのだから、それを恐れ、従っていかなければならないという主義である。
コリントにしろ、ガラテヤにしろ、考えてみると、どの教会もいろいろな問題をかかえ、パウロを悩ませた。
教会は決してととのえられたものではない。
問題を持ちながら、その中でほんとうのものを見分け、ほんとうの声を聞いていくことが大事である。
それを怠っては、キリストのからだなる教会は生まれてこない。
教会には問題が多すぎると嘆く人があるが、問題があるということは特別なことではない。
その中で何を聞いているか、どこに目を注いでいるかということこそ私たちの問題である。
だから教会はいつも聖書の言葉に耳を傾けて、ほんとうにあるべき姿はどういうものであるかを求め、キリストのかたちが成っていくために、絶えず生みの苦しみをお互いにしていく、そんな動的な教会が真の教会ではないかと思う。
「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り」とある。
私たちはなかなか他者のために祈るところまではいかない。
他人のために祈るのは、キリスト教の特色である。
家内安全、商売繁盛とは祈るが、とりなしの祈りがなされる宗教は少ない。
祈るより何かをしてあげたほうが人のためになるように思い、また人もしてもらったように思う面が人間にはある。
しかし、私たちが人のためにできる最大のことは、祈りではないかと思う。
それはあまり表面には出てこないから、人に感謝されるものではない。
そういう点で一生懸命祈ることは、実は価を求めないで愛していくことと同じである。
人に御言葉を送ることも、結局それがいちばん親切なことだと思う。
それは、自分が絶えず御言葉を聞いていなければできることではない。
そうでなければ、聖書の言葉をいくら巧みに調合して、オプラートに包んでみても、それは異物をあげたようなもので、もらった人は砂をかむ思いがするだけである。
人に御言葉を与えるためには、懸命に聖書を読み、その言葉に自分の生活をかけていかなければならない。
パウロが福音を語るために、見えない世界、隠れた世界において、多くの汗と涙と努力を重ねていたことを忘れてはならない。
God Bless You!!
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