2021年8月31日(火)の手紙

2021年8月31日(火)


『信心にかなう真理の知識を……。』テトスへの手紙1章1節


信心心というのは、信仰の生活化というか、生活の中で信仰が生かされていくことである。
テモテへの手紙やテトスへの手紙によく出てくる言葉である。

あれもしなければならない、これもしなければならないとこの世のことを考えると、神を信じていくことはできない。

よく教会へ来始めた人が、洗礼を受けたいが先祖の祭りはどうなるかとか、主人と私と墓が違えば行くところも違うのではないかとか尋ねる人がある。

自分の救いよりも、そのようなことが気になっていては信仰を持つことはできない。
ただ私たちの名が天に記されていることを喜べばよいのである。

たとえ孤独の中に死んでいかなければならなくても、私たちはそこに非常な確かさを持つことができる。
ある意味においては、この世のことは二の次にして、神のことが第一にならなければ、信仰に入ることはできないのである。

そして、信仰に入った者は、毎日毎日の自分の生活の中に信仰を根づかせていかなければならない。
一時の感情で信じたことで全うされるものではないからである。
その、根づかせていくことが信心の生活である。

私が行っているアシュラムもそれである。
「毎日聖書を読みなさい、一生懸命祈りをささげなさい、そして、神が語りかけてくださる言葉に耳を傾けていく生活を日々続けることがたいせつです」とすすめるのも、「信心にかなう真理の知識」なのである。

イエスが十字架について死んでくださったということを聞いても、少しも感動となってこないことがある。
それが他人ごとでなく、自分のためであると知るには、聖霊の働きが必要であり、それは信心の生活をしていくときに知らされてくるのではないだろうか。

教理の理解と真の霊魂の救いとでは天地の差がある。

ある人が「イエスが十字架につかれたことが自分に迫ってこなければ、人のために尽くすことはできない。
祈りの生活をしなければ、絶対に行動はできない」と強調しておられた。
私たちは、世に尽くすためにも、信心にかなう真理の知識を考えていかなければならないと思う。

「神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救い主なる
神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである」。

パウロの感動はここにある。
私のような者に最も大事な福音を宣べ伝えることをゆだねてくださった、ということである。

私たちは神から選ばれた大使である。
パウロがいう使者とは、大使の意味である。

大使はその国を代表して他の国へ遺わされる。
そこででたらめな生活をしていたら、母国をそのように印象づけてしまうかもしれない。

私たちは神からの選びと任命を深く思い、それにこたえていく者でありたい。

God Bless You!!


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