2021年8月28日(土)の手紙

2021年8月28日(土)


『あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。』テモテへの手紙第二2章1節


私たちは、信仰に関することだけではなく、何か他のことにも強くなりたいという気持ちを持っている。
そのときに、何によって強くなろうとしているかを顧みる必要がある。

「キリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい」の恵みによるとは、神の約束を信頼して生きるということである。

「ひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」神は、「どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。

これが神の約束である。
その約束を信じて生きることによって、強くされるのである。

たとえば受験のときに、この学校に入りたいから願いをかなえてください、というような祈願がされるが、これはキリスト教信仰ではないし、キリスト・イエスによる恵みによって強くなるということでもない。

自分の願いもあるが、私に最もふさわしいところに送ってくださいと神にゆだねて、神に仕えていく生活をしていってこそ、神の恵みによるということになると思う。

「兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない」。

私たちは、福音を伝えるため神に召され、遺わされている。
そうであれば、その神に日常のことはゆだねればよい。
兵隊が戦うのをやめて、食事や衣服のことを心配するようであっては何にもならない。
私たちは、もっと神が働いてくださる場を提供しなければならない。

社会保障制度が発達し、物質面で豊かになっても、やはり神にゆだねる世界はある。
私たちが神の言葉に従っていくときに、神にゆだねなければならないことが生まれてくるのだ。

いったいあなたにとって信仰とは何であるか、神の国とは何であるか。
残念ながら、それになかなか答えられないのが私たちの現状ではないだろうか。
私たちにとって神が最大の問題になっていないからである。

カイザル(この世)のことはカイザルに、神のことは神に、とあるにもかかわらず、神のされることを自分がしてしまうから、信仰の論理が乱れてくるのだ。

「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。

私は自分自身を振り返ってみて、イエスがはっきりと映っていないときがある。
「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」とパウロは言うが、それは信仰の不徹底なところに原因がある。

大事なのは、イエス・キリストが私の心に満ちあふれ、その福音がいつも心の中で燃えていることである。
そうなれば、私たちの具体的な生活の中で、イエス・キリストのゆえに勝利の生活を送ることができるのである。

キリスト・イエスの恵みによって強くなりたいものである。

God Bless You!!


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