2021年8月26日(木)の手紙

2021年8月26日(木)


『信心にかなう教に……。』テモテへの手紙第一8章3節


「くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。
それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである」。

パウロは、キリスト信者の基準の一つとして、人からそしりを受けないようにしなさい、と言っている。
これは、ちょっと考えると、人を対象とした主体性のない生活のように思える。
しかし、パウロは、教会が人からそしりを受け、そのそしりが救いのつまずきになることを恐れたのである。

私たちは尊いイエス・キリストの贖いによって贖い出された者として、この世から召し集められた。
したがって、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべき」なのである。

パウロは、くびきの下にある奴隷に対して、未信者の主人であっても、真に尊敬すべき者として仰ぐべきであると言う。

愛は、求めるべきものではなくて、与えるものであるというのが鉄則である。
愛は、仕えるものであって、仕えられるものではないのである。
私たちは、神を信じているという強さがあるのだから、それを実際の生活の中で生かしていくことがたいせつなのだ。

正しい信心を持って生きることについて3節から10節に書かれている。
聖書の中で、信心という言葉がいちばん多く出てくるのはこの箇所である。
私はこの言葉からアシュラム運動の神学的基礎づけを見出した。

信仰はこの地上のことからではなく、天的なことから起きてくる。
たとえば、あなたのためにイエスは十字架につかれたという宣教は、上から下ってくるものであって、それに対して垂直にこたえようとするところに信仰がある。

信仰告白にも「旧新約聖書は神の霊感によりて成り、キリストを 証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」とあるが、そういう信仰はこの世の常識では通用しない。

そのような世界で垂直の信仰を持ち続けていくのであるから、イエスは「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」と言われるのである。

しかし、そういう垂直の場所を持たない信仰がその場所を持つところに信仰生活がある。
つまり、信仰が生活の中で生き続けるためには、私たちは絶えず垂直の神の声を聞かなければならないのだ。

私はそれを点と線と言っている。
点は面積がないが、しかし、点の連続が線になってくると、そこに長さを持ってくる。
点の連続が信心である。祈り続けなさいとパウロは言うが、それこそが信心である。
その信心という生活によってはじめて、生きた信仰生活を維持していけるのである。

God Bless You!!


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