2021年8月21日(土)
『主はわたしを忠実な者と見て……。』テモテへの手紙第一1章12節
「わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。
主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである」。
自分は忠実な者ではないが、主はあえて私を忠実な者と見なしてくださった、とパウロは言っている。
そこにはパウロが言う、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶという愛がなければ、「見なす」ことはできない。
その人の持っている五の力を五と評価することはだれでもできるが、五を十と評価することは信頼がなければできることではない。
あのサウロがパウロに変わっていく転換点になったのは、イエス・キリストのまなざしであった。
三度イエスを知らないと言ってイエスを裏切ったペテロが、イエスの僕としての生涯を全うしていくことができたのはなぜか。
イエスがじっと慈しみのまなざしをもってペテロを見つめてくださったからではなかったろうか。
大事なことは「見て」ということである。
ペテロやヤコブが網を打っているのをごらんになり、あるいは生まれつきの盲人を見てとある。
ほんとうにイエスのまなざしは、私たちを立たせる力である。
パウロにとってもそうであった。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と言って近づいてくださったイエスの愛によって、彼はひっくり返ったのである。
方向転換をしたのである。
その起点がやはりイエスのまなざしであった。
その愛にふれたとき、パウロにはこの世のことも、自分のことも消えてしまった。
そして、私を信頼してくださったイエス・キリストに、なんとしてもこたえていかなければならないという信仰が起こったのであった。
だから彼は、「福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである」と言ったのである。
私たちも、自分の命など問題ではないというほどに、福音が大きな問題とならなければならないと思う。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。
わたしは、その罪人のかしらなのである」。
God Bless You!!
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