2021年8月19日(木)
『主の日はすてにきたとふれまわる者があっても……。』テサロニケ人への手紙第二2章2節
初代教会にとってひとつの大きな問題は、主の再臨がいつか、ということであった。
最近でも、主の再臨を強調する人たちがある。
彼らはこの世の成り行きからしるしを求めていこうとする。
たとえば戦争とか、地震とか、飢餓とかがあるたびに、それらが再臨の前兆ではないかと見るのである。
しかし、そのようなこの世の出来事から再臨を予測するのはまちがいである。
神の国建設という言葉があるが、ともすると、一生懸命愛の業をしていったら神の国を建設できるのだというふうに、人間の努力に力が置かれすぎているように感じる。
神の国は建設するものではなく、受け取るというか、きたるべき性質のもので、「きたらせたまえ主よみくにを」という讃美歌にあるとおり、これこそほんとうのキリスト教信仰ではないか。
この御国は神のところから来るのである。
夜どんなに暗くても、太陽さえ昇れば明るくなる。
主の再臨は朝がやってくるようなものであるから、神の道が備えられたからやってくるのではなく、うれしくても、絶望的であっても、神の国はそういうこととは関係なくやってくるのだ。
イエスの再臨に対する教えの根本は、福音書にも書いてあるように突然に来るということである。
だから、毎日再臨を待ち望んで生きていくことがたいせつである。
毎日を神の前に、イエスの前に立たされた者として生きていくことが、主の再臨を待ち望むことである。
いつかあるときに来る、という迎え方をすれば、現在に対する責任がなくなり、自分はいま何をなすべきかということが問題でなくなるのではないか。
マタイによる福音書の第25章で、イエスが三つの譬え話をしておられる。
最初は賢い五人の乙女と愚かな五人の乙女の話で、主の再臨を迎える備えを怠ってはならないことを言う。
次のタラントの譬えでは、その備えは何かということ、すなわち与えられた信仰を働かすことを教えられた。
では、信仰を働かすとはどういうことかというのが三番目の譬えで、それは信仰をいまの生活の中に生かしていくことだと言われた。
「そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。
これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」。
主の再臨に対する備えがいちばん具体的にあらわれるのが、いと小さい者になした、なさなかったということである。
それが主の再臨に対する三つの譬えの結論である。
いまにも主の日が来るとふれ回る人たちが出てきたテサロニケの教会に、パウロは、主の再臨に備えるとは、毎日の生活の中で忠実に御言葉に従って生きていくことだとすすめたのである。
God Bless You!!
a:40 t:1 y:0