2021年8月12日(木)の手紙

2021年8月12日(木)


『目をさまして、感謝のうちに祈り……。』コロサイ人への手紙4章2節


「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」と2節にあるが、目を覚まして祈るということについては、二つのことが考えられる。

一つは、目を覚ますとは恍惚状態ではないということである。
宗教は単なる現実の世界のものではない。
そこには神を愛する情熱がある。
あるいは霊的な世界におけるものであるから、そこには感覚的なものもなくはない。

しかし、祈りが感情的、感覚的になってくると、それはキリスト教信仰に根ざしたものではない。

時々祈りの中で、非常に粉飾された言い方をしたり、とってつけたような、生活とかけ離れた祈りをする人があるが、私たちは、祈りを聞いてくださる神に祈るのであるから、信仰に立った祈りでなければならない。

キリスト教の祈りの終極点は、キリストがはっきり仰がれ、私のために十字架について死んでくださったイエス・キリストがはっきりすることである。
それが私たちの祈りのいちばんの願いである。

第2章で、中心がはっきりすれば、どの半径も同じであると話したのと同様である。
しかしこの中心がはっきりしないと、豊かさが近くにあるとすれば、貧しさは非常に遠いことになってみたり、健康であることはすばらしいが、病気は悲しい寂しいことになってみたりするのである。

イエス・キリストがはっきりすれば、人間が持っているそのような限界は消え去ってしまう。

私たちの祈りで大事なことは、あれこれしてくださいということでなく、キリストがはっきり見えてくるようにということである。

それは感情や恍惚状態ではっきり見えてくるものではない。
霊の目、霊の耳が開かれなければ、キリストをはっきりと見ることはできない。
目を覚ますとは、とぎ澄まされた感覚を持って祈るということである。

もう一つは、私たちはこの世に生きているから、そこに埋没しやすい。
この世は因果応報、原因結果の世界であり、原因がなければ結果はないというのが鉄則である。
だから神に対しても、原因がなければ結果もないというふうに考えてしまいやすい。

しかし、目を覚ますとは、この世の状態に目を奪われることではなく、しっかりと神の約束に立つことである。
神はこう約束された、神はこう言われた、神の恵みはこうである、と信じていくことである。
いつも神の可能性、神の約束を私たちの現実よりも確かなものとしていくことである。

「感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」。

祈り続けるとは、四六時中祈るということではなく、事ごとに祈るということである。
そのくらいのことは祈らなくてもよいだろうと思う小さなこと、祈ってもしかたがないと思う大きなこと、どんなことにも祈っていくのが祈りの精神なのである。

God Bless You!!


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