2021年8月11日(水)
『古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て……。』コロサイ人への手紙3章9節
日本人の宗教生活を考えてみると、さまざまな神を信じているが、そのことに良心の阿責というものが非常に鈍いところがあると思う。
キリスト教の神も信じるし、他の神も信じるというのは、何でもよいことはしたほうが得だというのと同じである。
保険もかけていたほうがよい、宝くじもたくさん買っておくほうが当たりやすいというような気持ちには、利用ということだけしか考えられていない。
それが多神教である。
キリスト教が人格的な神との交わりであるというのは、私を愛してくださるかたを私も愛していく、すなわち自分が相手に仕えていくということである。
愛はある意味では損なことである。
自分が損をしていくのが愛である。
自分が得をするのは利用である。
イエスを主とすることは、他のすべてを主としないことであり、自分がイエスの奴隷になっていくことである。
イエスを主とするとは、イエスも主とすることではない。
パウロは、「わたしはキリストの奴隷である」と言ったが、事実キリストに従っていく人生を最高の人生とした。
キリストのゆえにあらゆるものを失ったが、いまはそれを糞土のように思っているとも言っている。
それは、イエスを主としていたからである。
イエスを主としていながら、最後に物を言うのは金であると心の中で信じているなら、イエスを主とすることにはならない。
キリストがどう言われても、このことだけはいやだというものを持っているとすれば、イエスを主とすることにはならない。
どんなにいやなことであっても、避けたいことであっても、それがキリストの御旨であれば、従う。
それには神からの力づけがなければ、私たちの良識などでは全うすることはできない。
「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て……」。
古い人を脱ぎ捨てなければ、新しい人を着ることはできない。
私たちが信仰の厳しさを味わうのはここである。
教会へ行きたいのだが忙しくて行けないと言う人があるが、暇でしょうがないから、日曜日は教会へ行こうという人はだれもいない。
みな古い生活、古い人間を、この世の生活を脱ぎ捨てて来るのである。
そのことなしに、神の恵みにあずかることはできない。
古いものを捨てることは、私たちにはむずかしいことかもしれない。
しかし、新しい世界がどんなにすばらしいものであるかを知ったなら、古いものに頼っていることがばからしくなる。
悔い改めるとは、自分をむち打って無理に脱ぎ捨てるということではない。
いままで宝と思っていたものがほんとうの宝ではなく、これこそ宝だというものがわかるようになることである。
自分をそれほどまで愛してくださっている神の恵みがわかれば、私たちは古い人を自然に脱ぎ捨てられるのである。
God Bless You!!
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