2021年8月10日(火)の手紙

2021年8月10日(火)


『キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。』コロサイ人への手紙2章3節


「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」。

神を知ろうと思えば、イエス・キリスト以外のものに神を求める必要はない。
イエス・キリストさえ信じたら、神を知ることができ、信仰生活をすることができる、と言っているのである。

「わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである」。

人間は何かのしるしを求めやすい。
だから、いろいろなものが強調されることがある。

戦争、石油危機、これらはこの世の終わりのしるしだから、終末が近いと叫ぶ者がいる。
また、異言を語る者がいたり、いやしの業をなすとして、何年も立ち上がれなかった人がいま歩いていると言ったりする者がいる。

そういうことを聞くと、ついついそれが本物であるように思えて、フラフラとついていってしまう人がある。
これは、グノーシス派と同じではないだろうか。

そこでは、イエス・キリストの十字架が薄らいでくる。
私たちにとっては、どこへ持っていっても解決できない罪が、イエス・キリストの十字架によってゆるされたということが信仰の根拠である。

そのことのゆえに私たちは神の前に望みが与えられている。
そこでは、病気がどうだとか、あれがこうだとかいうことは、問題ではなくなってくる。

キリスト教信仰はそういう意味で、中心をはっきり知らなければならない。
円の中心がわかれば、中心からら円周への距離はみな同じである。

焦点が二つあれば楕円形になってしまう。
中心が一つであると、私だけは遠いとか、この問題は困ったことだとかいうことが、みな等距離になってくる。

自分が病気であるということから、なにか遠いところへ行ったように感じるのは、中心がはっきりしていないからである。

パウロはピリピの教会へ書き送って、「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。
わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」と言っている。

その秘訣とは何か。
イエス・キリストの一点である。
その中心さえわかったら、私たちは劣等感をいだいたり、また優越感を持ったりすることはなくなるのだ。

イエス・キリストという信仰とこの世と、二つの焦点を持っていると、楕円形のようになって、自分のまさっている点では人に誇ってみたり、劣っている点では卑下してみたりするのである。

人間はイエス・キリストという一点がはっきりさえすれば、どんな境遇にあったとしても、すべてが等距離に感じられてくる。
それがパウロの言う秘訣である。

God Bless You!!


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