2021年8月1日(日)
『わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。』エペソ人への手紙3章3節
人間のあるべき姿をひと言で言えば、神の家族であること、神によってみな同じくされることである。
高い者も低い者もない世界である。
それはイエス・キリストによってはじめてはっきりしてくることである。
社会学的に考えたり、人間論的に考えて、人間はみな平等であると言うのではない。
イエス・キリストを信じることによって、人間はみな同じであるという奥義が示されるのである。
この奥義は、キリスト以前には示されていなかった。
イエスは「多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」と言われた。
その「見る」とは、イエス・キリストの十字架をである。
パウロが知らされた奥義とは、私たちの間には地上的には差があるが、神の国を継ぐことにおいては一つになること、そしてイエスによってすべての人の罪がゆるされるということである。
「わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである」。
パウロが福音の僕とされたのは、神から恵みを受けたからである。
そういう点で、パウロの信仰と伝道は、彼の経験、彼がキリストと出会ったというところから出発している。
パウロは使徒行伝においても、ダマスコ途上の経験を三回語っている。
あの経験をバックにしなければ、ローマ人への手紙、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙などは理解できない。
パウロはその一つの経験をたいせつにし、そこからいろいろな問題を普遍化した。
私たちも自分とキリストとの関係をはっきりさせなければ、生活が生かされてこないのではないかと思う。
このごろキリスト信者の中には、よく社会実践を言う人があるが、実際にやってみないからいかにも易しいことのように思っている面がある。
イエスはあなたの敵を愛せよと言われたが、敵になってくる者を愛することは簡単にできるものではない。
それをほんとうに受け止めていこうと思えば、逃げ出したくもなる。
自分自身の不徹底を思い、自分の幸せ、自分さえよければというところにとどまっているのではないかと反省させられる。
また、とかく私たちは、キリストの愛に触発されないで、理屈だけで実践していこうとするところに大きな問題があると思う。
それはちょうど幼稚園の子どもが屈強な人夫の仕事をするようなものである。
子どもに重いものが運べるはずがない。
キリストが私のために十字架について死なれたというそのことを、自分がどれほど強く感じているかというところに、その問題の解決があるのではないだろうか。
God Bless You!!
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