2021年6月9日(水)の手紙

2021年6月9日(水)


『キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから……。』ローマ人への手紙1章1節


「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」という有名な言葉は、この手紙を貫いているものであり、
プロテスタント教会の、信仰の基盤となったものである。

1節から7節までは、その当時の手紙によくある挨拶文である。
ここで自己紹介をし、自分の立場、姿勢をはっきり示し、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから」と言っている。

パウロは、第一に、自分はキリスト・イエスの僕であると言う。
僕とは奴隷という意味である。

当時奴隷は主人の所有物であり、生命の保障もなく、自分の立場や都合は許されず、ただ絶対的服従あるのみであった。
だからパウロは、キリスト・イエスの僕として、それが自分にとってどんなに無理であっても、不都合であっても、ふさわしくないことであっても、キリスト・イエスの言葉であるならば、主の僕として、どこまでも絶対的に服従していく者であると言っているのである。

第二に、「神の福音のために選び別たれ」と書いているが、選びとは、聖書が一貫して語っている一つの信仰である。
聖書には、私たちの神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとよく出てくる。
これは、神がアブラハムを選んだように、こんな名もなく、不徹底な、言うなれば神にふさわしくない、この私をも選んでくださったということである。

人類の歴史の中で、何人と出てこないようなアブラハムと同じような重さで選び別たれたということは、考えれば考えるほど大きな恩寵ではないだろうか。

私たちの世界は、いつも私たちの持ち物によって評価される。
たとえば、人から称賛されるときも、それは私の何かのゆえに称賛されるわけで、その何かがなくなれば、人は知らん顔をしてしまう。

知らん顔をしたからといって、世間は冷たいとか、薄情であるとか言ってもしようがない。
値打ちのある人は高く評価され、値打ちのない人は低く評価される。

この世界にあって、私たちがアプラハムと同じように選ばれたということはすばらしい。
「聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」。

私はこれを読んだとき、心に非常な喜びがわいてきた。
私はあのペテロやヤコブとは何の関わりもなく、はるかに離れた世界に住む者のように思っていたが、彼らと同じように神の家族にされているということは、なんとすばらしいことか。

第三に、召されて使徒となったとあるが、使徒とは神から送り出された者という意味である。
神から仕事を委託された者ということである。
私たちも、この世に派遣されるために召された者であることを覚えたい。

God Bless You!!


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