2021年6月5日(土)の手紙

2021年6月5日(土)


『フェストはユダヤ人の歓心を買おうと思って……。』使徒行伝25章9節


パウロは2年間監禁されたまま放置された。

その間に、総督はペリクスからフェストに替わった。
すると祭司長やユダヤ人のおもだった者が来て、パウロをエルサレムに呼び出すように願った。
二年たっても彼らのパウロに対する憎しみは、少しも薄らいではいなかった。

フェストは、一応はユダヤ人の願いを退けたが、カイザリヤの法廷に座ると、「ユダヤ人の歓心を買おうと思った」。
前章の終わりでも、ペリクスが「ユダヤ人の歓心を買おうと思った」とある。

為政者というものが、二面非常に強圧的に上から力を持って臨んでくるとともに、他面では絶えず人の歓心を買おうとすることを示している。

彼らは真理よりも、人の歓心を買おうとする。
たとえ真理とわかっても、真理の擁護者とはならず、自分の擁護者となる恐ろしい面が権力者には常にある。

フェストのように、虚心坦懐に善悪を識別することなく、ユダヤ人の歓心を買おうとし、ローマ政府への点数稼ぎと出世だけを考えるような者が、パウロの命を左右する権力を持っているのは恐ろしいことである。

しかし、そういう不安定なこの世のなりゆきの中に、神の御心や摂理というものが生きていることを見落としてはならない。
パウロがアテネで説教したように、私たちは神の中に生き、動き、存在しているのだから。

キリスト教信者の中には、悲劇的なものにばかり目を奪われる人がある。
世のなりゆきに鋭いメスを入れ、いまの人はだめだと言ったりする。

それには根拠はある。
しかし私たちはどんな状況の中でも、その奥に大きな神の御心があることを信じなければならない。

真夜中にあっても、復活の神、天地創造の生ける神を仰いで、必ずあらわれる朝の太陽を信じて待つのである。
これが、私たちが他の人と違う点なのである。

天と地とを支配し、私たちのためには一人子をも惜しまない神がおられる。
どんなときにも希望に生きていこう。

フェストはアグリッパ王に、ペリクスが残していった一人の男に会ってみないか、と話を持ちかけた。
そして会ってみようということになった。
それは人の命を興味本位に見ている世界である。

もし私たちが人間にだけ目を留めていたら、このような世界しか見えない。
私たちはそのような中でも、神の救いの御業が、神のご支配が着々と進んでおり、神の御旨は微動だにしないことを見つめていかなければならない。

使徒行伝は、ある意味で、生まれたばかりの、弱い、少数の信仰者の群れが、いろいろな困難や苦しみにあいながらも、決して萎縮することなく生きていったことを記したものと言える。

彼らが萎縮しなかったのは、自分たちの人生、世界のシナリオライターがだれであるかを知り、信じて生きたからであると思う。

God Bless You!!


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