2021年6月27日(日)の手紙

2021年6月27日(日)


『あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように……。』コリント人への手紙3章3節


私たちが聖霊の導きを得ようとするならば、まず肉の働きを止めなければならない。
聖霊が得られたらどんなによいだろうと願っても、肉を殺さなければ御霊を受けることはできないのである。

ローマ人への手紙に「霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」とあるとおりである。

いままでの古い生活から少しも離れないまま、霊においても富み、両方とも豊かになろうとしても不可能なのである。

富める青年の話が、それをはっきりと語ってくれる。
現在の自分の生活から何一つ失いたくはない。
そして、このままで永遠の生命をいただきたいというのが、彼の願いであった。

そして、彼はイエスの言葉に顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。
主は彼に、全財産を捨てて従うことを命じられたからである。

私たちが肉にあるかぎり、どんなにしても霊の人となることはできない。
これはまったく自明の理である。

それなのに私たちはなんとかできないものかと苦闘する。
しかし、神の恵みの中に生きようと思えば、この世と訣別しなければだめなのである。

「どうも私は信仰が至りませんので、いつまでたってもわかりません」と口癖のように言う人があるが、永遠の生命に生かされる生活に入るのは単純なのである。
ただ一つ、肉を殺すという一事である。

この世から出るということ、これ以外にない。
しかし、これはこの世に生きている私たちにはむずかしい。
まことに命に至る門は狭く、その道を通る人は少ないのである。

さらに、パウロはコリント教会内の分派騒ぎに根本的な態度を示す。
「パウロは何者か」とは、それにどれだけの値打ちがあるのかということである。

アボロもパウロも自分の力で伝道したのではなく、ただ神の恵みによる。
しかも、主から与えられた分だけ働かせていただいたにすぎないと説くのである。

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。
しかし成長させて下さるのは、神である」。

「成長させて下さる」とは、ずっと継続していくことを意味する語である。
すなわち、完成するまでやむことがないとの意である。

私たちにひとたび福音の種がまかれたら、神はずっと霊の手入れをしてくださる。
世の心づかい、罪の誘惑という雑草が、いばらが生えてくる。
それは引いても引いても絶えはしない。

しかし、このような中で、それらを取り除き、成長させてくださる神がおられるのだ。

分派、裁き、愚かさ、実にさまざまな思いわずらいがある。
しかしパウロは、すべては神のものであり、私たちは神のものなのだから、私たちを滅ぼすものは何もなく、むしろいっさいが祝福となることを語っているのである。

God Bless You!!


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