2021年6月26日(土)
『それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。』コリント人への手紙第一2章5節
パウロはコリント教会に「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」と書き送った。
この「知る」とは知的にわかるという意味ではない。
人格的に深く関わるという意味である。
とかく私たちは、神に頼る以上の確かさはないのに、なにか不安や恐れを感じる。
そこで、神とこの世という二本立てになり、この世にも頼りながら、足りないところは神に補ってもらうというような信仰になる。
これでは、神は全能でもなんでもなく、飾り物になってしまう。
神のことは、神のみに頼らないとわからない。
聖書は神以外のものに頼ることをはっきり否定する。
ほんとうにイエス・キリストは私の主であるという経験、この出会いの経験をしてもらいたい。
これがパウロのコリント教会への切なる願いであった。
なぜなら、彼自身が、そのキリストと出会っていたからである。
この出会いこそが、彼をして証人たらしめたのである。
それでは何を証言するのか。
それは「隠された奥義」である。
人々にキリスト教を伝えるとき、「どうもわかりませんね」と言われたりすると、私たちは考え込んでしまう。
しかし、私たちの信仰とはこの世の知恵ではない。
むしろこの世には隠されており、人々にわからないのが当然なのである。
神が人となり、十字架上で最期をとげ、三日目によみがえり、信じる者に新しい生命をお与えくださる。
この証言は、どんなに勉強してもわかるものではない。
それはただ聖霊によって示される。
私たちが悟るのでなく、神がお示しくださるのである。
神からどんなに大きな愛が私たちに与えられているか、それは聖霊が与えられてこそ悟りうるのである。
しかし、私たちは自分でも気づかないままに自分の知恵を誇りだし、途端にわからなくなり、口先だけの世界に陥ってしまう。
「キリストは私たちのために十字架につかれた」と言うだけなら、別に信仰しなくとも言えるだろう。
しかしその空虚さはどうだろう。
言葉はどんなに上手に言えても、内容が伴わなければ人を動かすことはできない。
今日ほど、人々がほんとうの救いを求めている時はない。
救い主を望んでいるのだ。
ただ、そこへ連れていってくれる人がいない。
そこにみんなの失望があるのではないか。
連れていく人は、神の御霊による証人でなければならない。
どれだけお金をためても、魂の平安はなかった。
地位や名誉を得ても、心に安らぎはなかった。
これが人々の心の底の叫びである。
人々は魂の平安を求めている。
私たちは先に召された者として、神の霊によって賜った恵みがどんなに大きいかを知り、人々に伝えていかなければならない。
God Bless You!!
a:40 t:1 y:0