2021年6月25日(金)の手紙

2021年6月25日(金)


『神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。』コリント人への手紙第一1章21節


パウロはまず、他の手紙の場合と同様に、自分がキリスト・イエスの使徒とされたことをもって始めている。

自分が使徒とされたのは、どこまでも自分の能力によるものではなく、ただ神の御旨によるものであることを明言すると同時に、あとからあとからとわずらわしい問題の生じてくる教会に対して、あなたがたの教会は神の教会であると明言している。

教会の中で問題が起こると、私たちはあらわれてくる事柄だけを見がちになり、こんな教会は教会ではないなどと言ったりする。
これはまったくまちがいである。

その教会にどんな問題があり、混乱があっても、それは集まっている人々にまちがいがあるのであって、教会は神の教会なのである。

パウロは乱れたところを見ないでその本質を見つめ、コリントの人にそれを説いた。
これは教会に対してだけではなく、人に対しても同じである。

「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ」とある。
私たちはみな、キリストによって聖徒として召された者である。

立派だからではない。
神がおおぜいの人の中から私を拾ってくださったから、聖徒とされた。
そのことを見なければならない。

パウロはさらに最も重要な十字架を語っている。
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。

神の子が十字架にかけられ殺される。
そんな者が救い主なのか。
それがユダヤ人のつまずきであった。

また、ギリシヤ人の考えからすれば、神が人間の姿をとってこの世に生まれてくるなど、そんなばかげたことはなかったのである。

しかしキリスト教の信仰は、どこまでもイエスの十字架を私たちの救いのための事実として受け取るところから始まる。
キリストの福音は、自分がそれに不服であっても理解ができなくても、事実のおとずれなのである。

神が一人子を送り、十字架につけ、私たちに神の愛を示されたという事実。
それを理解しようとするのではなく、承認するのである。

人を信仰に導くときも同様である。
私たちは人に理解させようと説明をし、イエスの弁護士になってしまう。

しかし聖書には、「神の弁護士になりなさい」ではなく、「神の証人になりなさい」と記されている。
弁護士は法律に通じていなければならないが、証人は一つの事実を体験しただけでよい。
自分の体験を言えばよいのであり、証人にはだれでもなれる。

無学だから、信仰が浅いから伝道ができないと言うのはおかしい。
聖書は、私たちのような者に弁護されなければならない神を告げているのではない。
私たちにできることは証人となることだけである。

そのために私たちは、イエス・キリストと出会うことがいちばんたいせつなのである。

God Bless You!!


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