2021年6月24日(木)の手紙

2021年6月24日(木)


『主にあって選ばれたルポスと、彼の母……。』ローマ人への手紙16章13節


プリスカとアクラとのことが3節に出てくるが、彼らのことは使徒行伝の第18章に書かれてある。

彼らがいつ信仰に入ったかは定かでないが、パウロと生活しているうちに、パウロが何によって生かされているかを知って、信仰に入ったのではないかと思う。
一人の人がキリスト教信仰をしていくことが、どれほどに大きな影響や感化を与えるかがわかる。

たいせつなことは、一生懸命イエス・キリストに結びついた生活をすることである。
それが、クリスチャンとしての社会に対する奉仕であり、また伝道である。
そのことがアクラとプリスカを、パウロが信仰に導いたゆえんではないかと思う。

その反対に、私たちはともすると、言葉では実にすばらしいことを言いながら、実際生活ではそれと異なった生活をしている場合がある。
そのためクリスチャンには偽善者が多いと言われるのである。
そういう弱さを互いに持っていることを注意しなければならない。

「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく」。
彼の母とは、クレネ人シモンの妻である。

シモンの一家が救われたのは、エルサレムにおいて、シモンがイエスの十字架を無理やりに負わされたことにきっかけがあった。
私は十字架というものは、ある意味において無理やりに負わされるものではないかと思う。
私が負いましょうと自分から進んで負っていくものは、もうすでに十字架ではないのではない。

十字架とは見ばえのしない、人が顔をそむけるような道であって、できることなら私でなくて、他の人に負ってもらいたいと思うものである。

私たちは、そういう意味で自分自身を省みるときに、美しい十字架は慕っているが、きたならしいそれは避けているのではなかろうか。

私たちは、とかく十字架というものを美しいものととらえて論じやすい。
「十字架を負って」と言うときの十字架は、それこそ名誉あるものであり、人々から喝采されたり、感心されたりするもののように思っている。

しかし、十字架とは恥ずかしいものであり、いやなものであり、ほんとうは無理やりに背負わされるものではないか。
だれも自発的に背負ったりするものではないと思う。

私はそういうことを考えると、自分が十字架から逃げていると思うのだが、この十字架のもとにこそ、はじめて自分の救いがあり、人々の救いがあるのである。

私たちは、イエス・キリストを信じ、その十字架を誇ると言っておりながら、現実には十字架を避けて、美しいもの、人々から称賛を受けるものを知らず知らずに求めてしまう。
これでは、キリストの証し人として、神の栄光を拝することはできない。

復活の喜びは、十字架をほんとうに担って、はじめてあずかれるものであることを覚えたいと思う。

God Bless You!!


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