2021年6月21日(月)の手紙

2021年6月21日(月)


『あなたがたは時を知っているのだから……。』ローマ人への手紙13章11節


国家権力をどのように見ていくかは、非常にむずかしい問題である。

パウロは、「すべての人は、上に」立つ権威に従うべきである。
なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」と規定している。

国家権力というものは、神によってできたものであるというのが、パウロの考え方である。
このことについてはさまざまな解釈があり、パウロが国家権力に好意的であったという説や、その反対を唱える人たちもある。

このことの解釈の鍵は、第12章21節の「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉にあると思う。
これが、国家権力や上に立つ権威に対する、キリスト教信者の姿勢であると思う。

パウロは国家権力が悪であると決めつけてはいない。
いわゆる善であるとか悪であるとかというよりも、神によって立てられているとは、神の支配を受けているということであり、仮に国家権力が悪事を働いたとしても、神はそれを長くはお許しにならないということである。

「なお、あなたがたは時を知っている……」。
この時とは、終末の時である。
それはイエス・キリストにおいて、私たちに現実化したものである。

キリスト信者は、いまという時がどういう時であるかを知っている者だとよく言われる。
ギリシャ語では、時をあらわすのに、クロノス、カイロスという二つの言葉がある。

クロノスは単なる時間であり、カイロスは大事な時、待ち望んでいる時というように、時自体に意味のあるものである。
ここで言われている「時」はカイロスであり、いまがどういう意味を持つ時であるかを知っているからこそ、「励まねばならない」のである。

たとえいまが暗くても、その暗さをも神が支配され、イエス・キリストをこの世に送り、十字架と復活の出来事を実現してくださったことにおいて、もうすでに夜明けに来ていることを私たちは知っている。

「それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」。

暗やみのわざとは何か。
「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ」である。
たとえこの世の人とギャップがあっても、私たちは朝の装いをしていかなければならない。

「昼歩くように、つつましく歩こうではないか」。
あたかも昼が来たようにとバルトは言っているが、そのようにつつましく歩こうではないか。

もう救いが近いのだから、洗濯も掃除もそんなことはしなくてもよい、賛美と喜びに満ちあふれていたらよいのだというふうになると、つつましいという意味にはならない。
日常の生活に密着し、その中でキリストを待ち望む生活がなされていくことが必要である。

God Bless You!!


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