2021年6月17日(木)の手紙

2021年6月17日(木)


『ただ神のあわれみによるのである。』ローマ人への手紙9章16節


ユダヤ人であれ、異邦人であれ、善人とされる人であれ、取税人であれ、それが問題なのでなく、人はみな罪人である。

義人なし、一人だになし、とあるように、人間は自分の行いによっては、だれ一人神の前に義人とされない。
そういう人間に対して、イエス・キリストの十字架が必要であり、十字架のゆえにすべての人はゆるされたというのが、パウロの福音理解であった。

そこで問題となるのは、選びということである。
いったい、ユダヤ人が神から選ばれたとはどういうことなのか。
神の恵みがすべての人に及ぶのであれば、ユダヤ人だけが神に選ばれたというのはおかしい、との反論が起こってくる。

そういうパウロに対する中傷者、パウロの同胞に対する愛を疑う人たちに対して書かれたものが、第9章である。

神がある人たちを選ばれたということと、すべての人を信仰によって義とされるということとは、一見矛盾するように思える。
すべての人が信仰によって義とされるのであれば、ある人たちだけが選ばれるのはおかしい。
パウロはその問題を、イスラエルの歴史と選びとから、9、10、11章で論じている。

選びや予定というものを考えていくとき、どうしても忘れてはならないことがある。
それは、私が選ばれた、ということからこの問題を考えていかなければならないということである。

そのことから考えると、自分のようなつまらない者を神が選んでくださったのは、神の自由な選びであるとともに、神の憐れみのゆえであることがわかる。
もし神が憐れんでくださらなければ、私は神に選ばれることはなかったであろう。

新約聖書に、アルパヨの子レビの選びの話がある。
民衆はイエスについて海辺へ出ていき、そこで神の言葉を聞こうとしたが、アルパヨの子レビは収税所に座っていた。
そんな神の言葉を聞いて何になるか、ばからしいと思って、現実の生活に夢中になっていたのだろう。

ところが主は、そのような、御言葉に対してふさわしくないレビをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と声をかけられた。
そこにレビの大きな喜びがあったのだ。

それは神の憐れみ以外の何ものでもない。
もちろん、イエスは話を聞きに来た多くの群衆を無視して、反抗するような者を選ばれるのではない。

福音書記者が言おうとしていることは、神の選びというものは決して選ばれる資格のある者が選ばれるのではなく、まったく資格のないレビでさえも選ばれたのであるから、まして神の言葉を求めていった人たちが、そのところにおいて選ばれ、憐れみを受けないはずはないということなのである。

選ばれなかった人のことを考える必要はない。
選ばれた人たちのことを考えていかないと、この問題はわからなくなる。

God Bless You!!


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