2021年6月12日(土)の手紙

2021年6月12日(土)


『不信心な者を義とするかた……。』ローマ人への手紙4章5節


第3章において、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、イエス・キリストの贖いを信じる信仰によることを明らかにしたパウロは、第4章において、アブラハムの信仰を引き合いに出してくる。

アブラハムが義とされたのは、彼が何かを行ったからではない。
創世記第15章1節に「あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と神の約束の言葉があるが、アブラハムはそのとき、一人の子どももなく、一寸の幅の土地も持っていなかった。

現実はまことに悲惨であるのに、あなたの子孫は空の星、海の砂のように多くなると言われても、誇大妄想のようなものである。

しかし、彼はそれが神の言葉であるがゆえに信じた。

私たちも今日、信仰生活をしていく上で、聖書を通して神の約束が与えられるが、その約束が果たしてほんとうかどうか、現実とくらべて見ている。
どこかにそれを証明するものがあるかどうか、と。

しかし、しるしを求める者は災いであるとイエスは言われた。
神が約束してくださったという以上の保証があるだろうか。

5節に「不信心な者」とあるが、聖書を注意して読むと、「信仰がない」と書かれたり、「不信心」と書かれていることに気がつく。
日本語ではそれほどの差はないようであるが、「無」と「不」とでは非常な違いがある。

不信心とは、神を疑うというか、神を否定するというようなものである。

ある人が「どうも十字架がわからなくなったから、教会へ行くのをやめよう」と言うのを聞いたが、「その十字架がわかるような人がいるのですか」と私は言った。
わからないことを信じていこうと努力するところに、私たちの信仰生活や教会生活があるのである。

はじめから、イエスは私のために十字架についてくださったということがはっきりわかるような人は、一人もいない。
イエスの十字架や神の恵みは広大であり、はかりしれるものではない。

私たちは信じられない。
そのように私たちは、無信心な者でなく、不信心な者である。
しかし、その不信心な者を義とするために、十字架がある。

「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。

パウロは、迫害している自分を、神から示された。
自分には立派な信仰があると思って、一生懸命になっていたパウロ。

ところが、イエスに出会ったとき、自分は信仰があるなどというものではなく、むしろ神に敵している者であり、しかも、イエスはその不信心な者をも義とするために来られたことを知ったのだ。

彼の信仰は燃えた。
彼は何ものをも忘れて、主の証し人として立った。

信仰が「ない」のではない。
信じることが「でない」のだ。
その自覚をするとき、主は呼びかけてくださる。
不信心というのは大事な言葉である。

God Bless You!!


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