2021年6月10日(木)の手紙

2021年6月10日(木)


『律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。』ローマ人への手紙2章13節


律法を誇り、割礼を誇っているユダヤ人に対して、単に割礼という儀式、あるいは神から律法を授けられているというその事柄を誇って、自分自身を厳しく見つめないことに対して、鋭いメスが当てられたことが第2章で語られている。

11節に「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである」とある。
これは私たちが読めば当たり前のことであるが、ユダヤ人は、神は自分たちだけを愛しておられるとして、そこに誇りを持っていた。

しかしパウロは、神の前には、ギリシヤ人もユダヤ人も同じであり、神の前に尊いのは、律法を持ち、割礼を受けたということではなく、神の前にいかに生きるかということであると説いたのだ。

次に、有名な言葉であるが、13節に「なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである」とある。

行いと義、これは宗教の陥りやすいワナだと思う。

今日のキリスト教もそういう点があると思う。
献金さえしていればそれでいいとか、日曜日の礼拝にだけ出ておればそれでいいとか……。

信者の義務はこれとこれです、これだけしておれば「それでいい」と言いだすと、宗教はおしまいである。
たとえば、親子の間でも、子どもの義務はこれこれであるというようなことになると、親子の関係はこわれてしまうだろう。

同じく宗教というものは、なにかこれを持っているとか、こんなことをしているとかいうことで終わりになってしまったのでは、精神的なものは死んでしまう。

さらにパウロは、律法から割礼に言及している。

25節に「もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。
しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう」とある。

わかりきったことがわからなくなるのが宗教である。
そして、ほんとうにこっけいな生活が生まれてくる。

宗教はその人にとって、それが正しいと思っていても、なにかしらゆがんだような生き方を生んでくることがある。
宗教は常識的な生活をしていくことが目的ではないが、しかし、私たちは気をつけなければ、非常に自分勝手な、自己中心的な生活を正当化する過ちを犯しやすい。

ユダヤ人は、やはりそういう過ちを犯していた。
パウロは、律法と割礼とは表裏をなすもので、一方だけでは意味がないと語り、外見上のことよりも、生ける神の前に自分はどうであるかを見つめていくことが大事であると言っている。

宗教には、形式や儀式などがあるが、それによって宗教が規定されると、非常にこっけいなものになってしまう。
それは現代においても、私たちが気をつけなければならない点だと思う。

God Bless You!!


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