2021年6月1日(火)の手紙

2021年6月1日(火)


『神が自分の働きをとおして……。』使徒行伝21章19節


パウロがエルサレムに上っていくこの道は、殉教の道であった。
人々はしきりにエルサレムに上っていかないように注意した。

カイザリヤでは伝道者となっていたピリポの家で、エルサレムに上っていかないように強く勧告されたパウロは、しかしまったくそれを聴き入れずエルサレムに上っていった。

そしてエルサレムに着くと、ヤコブと教会の長老たちに「神が自分の働きをとおして、異邦人の間になさった事ども」をいちいち説明した。

パウロはいつもこういう話し方をする。
私が神を信じてこういうことをした、と言わずに、神が私たちの働きを通してこういうことをしてくださった、と言う。

主語がだれであるか。
これは私たちの信仰にとってたいせつなことである。

私たちはともすると、私が神を信じることによってこのようなことをしたと言ったり、そういうふうな信仰の状態に留まりやすい。
そうではなく、神が自分を通してなさったことを語るのでなくてはならない。

私たちにとってたいせつなのは、私たちがどれだけ働くかということでなく、神が、キリストが、私たちを通してどれだけ働かれるかである。

神が働かれるとは、人間が何もしないでいることではない。
神が私たちを通して働いてくださるような働きを、私たちがしなければならない。
それは私たちが神の言葉に忠実に従っていくこと、神の言葉への聴従である。

そういう意味で、私たちの信仰生活は、神が私たちを通して人々の間で御業をなさる鍵なのである。

「一同はこれを聞いて神をほめたたえ」た。
そしてパウロに、いろいろな方便や工作をしてユダヤ人の誤解を解くようにすすめている。

パウロの働きを通して栄光をあらわされたと神をほめたたえながら、その後すぐに人間的な方策を考える。
ここに私たちの弱さがある。

神をほめたたえる、ということが自分のことになっていないのである。
他人のこととして神をほめたたえるが、自分のこととなるとたちまち態度を変えて、神を忘れる。
これが私たちだけでなく、エルサレム教会の中心となっていた人々でさえも陥っていた弱さである。

私たちが数々犯している罪、誤りはこれである。
この人間的な工作は結局、問題を解決できず、パウロは捕らえられ、殺されそうになった。
しかし、憐れみの神は異邦人を用いて、その危機からパウロを救ってくださった。
パウロになお福音のための使命があったからである。

エルサレム教会の工作はまったく力がなかった。
私たちも一方において神をほめたたえ、他方においてはその舌の根も乾かぬうちに、神を信じない行動に陥ることが多い。

使徒行伝は、私たちに自分たちの信仰生活のありようを見せてくれる。
私たちは誤りを示されるたびに、信仰姿勢を正していかなくてはならない。

God Bless You!!


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