2021年5月9日(日)の手紙

2021年5月9日(日)


『すべてが終った……。』ヨハネによる福音書19章30節


イエスは息を引きとられる前に、「帰人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」、また弟子に「ごらんなさい。これはあなたの母です」と言われたことが書いてある。

イエスは30才になるまで、母や兄弟といっしょに生活し、それから神の召命を受け、家を捨て親を捨てて公生涯に入られた。

イエスの働きを理解できなかった母は心配し、あとを追ったこともあった。
そのとき、「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と冷たい言葉でイエスは肉親に対された。

神の道に生きる信仰生活には、父母、兄弟、妻子、また自分自身も切り捨てなければならないほどの非情さがある。
そういう点でキリスト教は、人間の情愛の上に立てられた宗教ではない。
他の宗教では親孝行をせよと言うが、イエスは親を捨てよと言われたのだから、聞いた人はびっくりするようなことである。

しかし、親を捨てることがそのままキリスト教ではない。
ただ道だけ、真理だけ、信仰だけというものでなく、情愛も捨てるべきではないと思う。

イエスも片時も、母や兄弟を忘れたことはなかったのだろう。
それゆえ息も絶え絶えのときに、この言葉を言わしめたのであろう。

イエスは最後に、「すべてが終った」と言われた。
ベツレヘムの馬小屋に生まれ、33才の生涯を終えられるまでのその歩みは、ただ一つ人類の救いということに集約される。

それは十字架への道であった。

それから逃げることも、あるいは妥協することもできただろう。
しかし聖書の言葉は成就されなければならない。
十字架の贖いの業をなしとげ、その十字架の死によって、どんな人も救われるという世界が始まったと、イエスは宣言された。

終わりは始めである。

イエスの生涯の終わりにおいて、私たちの救いの生活の始まりがあった。
最も暗い十字架が、復活の朝の始まりであった。

「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」。

私たちが受けなければならない律法の裁きを、イエスが受けることによって、律法は終わりになり、私たちは律法の世界から解き放たれ、神の恵みにあずかる生活が始まった。

ヨハネが最初に、恵みとまこととは、イエスキリストによって来たのであると語っているが、この「すべてが終った」という宣言から恵みとまこととが私たちに及んできたのだ。

十字架は悲しい暗い出来事である。
人の策略が、悪の力が凱歌を上げた時である。
しかしそれは悪みずからが墓穴を掘った日であって、すべてが終わり、恵みとまことの始まる日であった。

字架を仰ぎ見つつ、喜ぶ者としての生活をすることによって、主の恵みにこたえていく者でありたい。

God Bless You!!


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