2021年5月6日(木)の手紙

2021年5月6日(木)


『わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。』ヨハネによる福音書16章7節


この14、15、16章は、イエスが自分の死を前にして語っておられるということを考えて読まねばならない。
ただ平然と学校で講義を聞くような気持ちで読んではならない。

まず最初にイエスは、自分が去っていく、そのことによって迫害が起き、人々はあなたがたを会堂から追い出したり、殺したりするだろう。
彼らはそれが神に仕えていることだと思ってするのであって、そのような時が来るであろうと言われた。

あのサウロがキリスト信者を迫害したとき、彼はそれが神に対して忠実な業だと思っていた。
私は信仰の世界でいちばん危険なことは真理を扱うところにあると思う。

先日読んだ雑誌に、正確には覚えていないが「この災いなるもの真理」と書いてあった。
真理は災いであると言うのである。
自分だけが真理を持っているとみんなが言いだせば、争いが起きてきて、それが繰り返される。
宗教にはそういうことが多い。

「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。
わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。
もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」。

これは非常に大事なことで、二つの意味があると思う。
一つは私たちがなんであれ何かに頼っている間は、聖霊を受けることはできない。

ティーリッヒが、聖霊の充満は自分が空にならなければ与えられない、ということを書いていた。
ほんとうにそうだと思う。

イエスがおられる間弟子たちは、イエスに頼っていたが、そのイエスが亡くなると彼らは途方に暮れたことであろう。
しかしそのとき神を呼ぶ生活が始まる。

私たちがいろいろなものに依り頼もうとするとき、それを打ち砕かれるのも一つの恵みの時である。
病気になる、事業に失敗する、友達に裏切られる、それは決して歓迎すべきことではないが、そういうときこそ御霊にいちばん近い時であることを思わせられる。

いま一つは、聖霊は清いものであり、イエスの十字架の贖いをへてこそはじめて注がれるものである。
イエス・キリストの十字架によって、聖霊を受けるにふさわしい者とされる。
イエス・キリストの十字架を感謝し、喜ぶ者だけが聖霊を与えられる。

十字架を抜きにして聖霊を受けることはありえない。
そのことが、「わたしが去って行かなければ」という言葉の中に示されている。

神はすでに十字架の贖いの業をなしとげてくださった。
私たちはもう聖霊を受けることができるようになり、悪魔に対するイエスの勝利が、復活によって与えられたという状態の中におかれている。

神が成就してくださった御業を喜んで、その業に励んでいくところに信仰生活があると思う。

God Bless You!!


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