2021年5月4日(火)の手紙

2021年5月4日(火)


『あなたがたは、心を騒がせないがよい。』ヨハネによる福音書14章1節


「心を騒がせないがよい」、「心を騒がせるな」という言葉が出てくる。
近い将来に弟子たちが心を騒がせるようなことが起きてくることをイエスは想定して、弟子たちを力づけるために話をされた。

心騒がせることとは、もちろんイエスが十字架につけられ、殺されることである。
弟子たちにとって、尊敬しており、また依り頼んでいる指導者がいなくなることは、大きな不安であった。

しかしさらに大きな不安は、あの立派な神の子イエスがなぜ十字架について殺されるのか、なぜ真理が否定されるのかということであった。

イエスの死は単なる悲劇ではなく、真理が否定されるというところにそのほんとうの暗さがある。
真理が否定されると、人間はどこに頼ってよいかわからなくなる。
それが心を騒がすということなのだ。

イエスが案じたように、弟子たちは真理が否定されたとき、立ち所を失って四方八方に逃げていってしまうことになった。
弟子たちの不安とは、まさにその生きる根拠を失うことであったのだ。

ここでまず私たちが反省しなければならないのは、イエスの弟子として、私たちは心が騒ぎ、恐れ、自分の生きる基盤を失ってしまうほどに、イエスに近く歩んでいるだろうかということである。

私たちは自分の安定した生活を構えて、そこから一歩も出ない範囲において、イエスに従っているのではないだろうか。
そんなに苦しむことなしにできる範囲に自分を置き、教会に誘われたからついて行くというぐらいで、イエスのために少しも心が騒がない。

勝手気ままに、自分の都合で信仰生活をしている者には、イエスの慰めの言葉は決して心の中に響いてこない。

「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。
イエスはそう言われた。

しかしそのイエスが、いま風前のともしびのように、強盗たちと同じような人間として葬り去られようとしている。
ののしられ、あざけられ、辱められ、この世から抹殺されようとしている。
だれ一人として弁護する者はいない。

そのイエスが、わたしは道であり、真理であり、命であると言われた。
このようなイエスだけを見ていたら、どうしてイエスが道であり真理であり命であるかわからない。

しかしイエスのあとに従っていく者に、すなわちイエスと同じようにイエスが受けた傷を自分も受け、イエスが失ったものを自分も失い、イエスがなめた苦い杯を自分もなめている者にとっては、わたしは道であり、真理であり、命であると言われたイエスの言葉は、慰めの言葉となってくるのである。

God Bless You!!


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