2021年5月31日(月)の手紙

2021年5月31日(月)


『今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。』使徒行伝20章22節


パウロは旅を急ぎ、ミレトでエペソの教会の長老たちを招いて、たいへん感動的な説教をした。

彼は「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く」と言った。
自分がエルサレムに行くのは、御霊に迫られ、からめられて行くのだと。

自分にもそうしたくない思いはある。
しかし聖霊によってである。
自分ではどうしようもない、という自分の真実を語っている。

黒人解放運動をしたマルチン・ルーサー・キングの著書『汝の敵を愛せよ』にこんなことが書かれている。
「白人から迫害され、危険にさらされ、投獄されたりすると、こんな運動さえしなければ、安全だし、家族と楽しく平和に伝道者の生活ができる。

そういう人もいるのだ。
もうやめよう、としばしば思う」と。

彼の心には大きな闘いがあった。
自分一人がいくらんだところでどうなるものでもない。
それよりはいっさいを神にゆだね、自分は神の御言葉だけを伝える、平和で感謝と喜びのある生涯を送ったほうがよいのではないか、と。

しかしそのとき、神の不思議な力が働いて、自分を黒人解放運動へと駆り立てる、と言うのである。

聖霊の迫りとは、それは損だ、それはつまらないことだとわかっているのに、なぜかそうせずにいられなくさせていく力のことであると思う。
自分の命も、そのほかのいろいろのものも問題とさせないで、私たちをその道へと追いやっていく、そういう力ではあるまいか。

パウロは「投獄と患難とが、わたしを待ちうけている」と聖霊が告げたと言っている。
普通なら、それでは行くのをやめようと思うだろう。

アジヤでの伝道も順調であり、マケドニヤの教会も成長しつつある。
このようなときに頑迷なエルサレムに出向き、身を危険にさらす必要がどこにあろうか。
いましばらくはこのままでいようという気持ちがパウロにもあったと思う。

しかし彼は御霊に迫られて、エルサレムに行かないではおれなかった。
神に選ばれ、律法を与えられたユダヤ人にとって、異邦人が律法なしに救われるということは、彼らが何千年も命のように墨守してきたものを踏みにじられることであった。

そこにパウロに対するはげしい敵意が燃えた理由がある。

しかしパウロは、イエス・キリストの恩寵を思い、十字架の贖いによって律法の世界から解放されたということを語らずにはおれなかった。

彼は命を差し出して、この福音信仰を守ろうとしたのである。

福音のために自分の命も惜しまぬ情熱がなくて、いったい何をもって福音を語りえようか。
命も惜しまない福音であればこそ、人々に語れるのではないか。

安楽な生活を確保しながら福音を語って、どれだけ人々の魂に響くだろう。
福音にまっしぐらに生きる姿が人々を恐れさせるのである。
福音とはそういうものである。

God Bless You!!


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