2021年5月3日(月)の手紙

2021年5月3日(月)


『もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。』ヨハネによる福音書13章8節


イエスは弟子たちの足を洗われた。

弟子たちの中にはだれがいちばん偉いのかというような争い、反目があった。
やがてイエスがこの世を支配されるとき、自分が要職につきたいという野心が弟子たちの心の中にあった。
人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしても自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていた。

その弟子たちを前にして、イエスはみずから進んで上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それからたらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められた。

それは奴隷のする仕事であった。

私たちがキリスト教信者である理由は、イエスが私のために十字架について死んでくださったということだけである。
それより深いものも、浅いものもない。

それが自分にとって真理であると受けとったときに、その人は信徒である。
それを受けとることができない人は、いくら長い間教会生活をしていても、その人は信徒ではない。

キリスト教の理解者、あるいは知的に知っている人であるかもしれないが、信者ではない。
キリスト教信者は、イエス・キリストにおける神の愛の迫りというものを受けた者である。
そしてそこには当然愛の迫りから応答が生まれてくるものである。

「今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
聖霊が注がれたとき、弟子たちははじめてイエスの十字架の意味がわかった。

弟子たちはイエスがなぜ十字架について死んだのかわからなかった。
だから彼らはイエスが十字架につけられたとき逃げていった。
しかしそのことがわかったとき、彼らは身をささげてイエスをキリストと告白していくことができた。

このように、聖霊によらなければわからないのであって、私たちも、聖霊を真剣に求めていかなければならない。
理性や知性で理解する程度のキリスト教にとどまっていてはならない。
それはよく言って律法主義、悪く言えば観念の遊戯である。

理性や知性を超えて生きたものになってくるのは、聖霊によるのである。

何十年信仰生活をしている人でも、敵のために祈ることが自然にできる人や、憎い人を愛する人はあまりいない。
イエスが私たちのために十字架について死んでくださったことを知り、その感謝の告白の連続が私たちの信仰生活である。

イエスは、わたしが足を洗ったからあなたがたも足を洗い合いなさいと言われた。
足を洗いなさいというのは、律法的な意味でなく、その喜びを持って人々に仕えていきなさいということである。

イエスの愛を受け、そこに目を留め、そこで生かされる。
そのことによって、お互いに人の足を洗い、敵をも愛する、新しい世界が生まれてくるのだ。

God Bless You!!


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