2021年5月27日(木)の手紙

2021年5月27日(木)


『パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して……。』使徒行伝16章10節


パウロはデルベからルステラに行った。
ルステラは以前、瀕死の重傷を負う迫害を受けた地である。
そこにパウロを待っていたテモテがいた。

テモテはパウロにくらべると内気で消極的な人ではあったが、忠実な同行者として献身すべく備えられていた。
信仰生活で苦しみや迫害を受けると、もうそんな道は歩みたくないと思うことが多い。
しかし、パウロはルステラであれほど悲惨な体験をしたのに、なお神に仕えていった。
そのとき一人の青年が自分の生涯を神にささげたのである。

信仰は口先だけで伝えるものではない。
それゆえ、私たちはまだ救われていない家族や友人がつまずかないようにと配慮する。

しかしそのとき、信仰の厳しさを隠して、抵抗なしに入信させようとしないであろうか。
その結果どこかで妥協したり、信仰をゆがめるようなことはないであろうか。

そのような配慮で人が信仰に導かれるのだろうか。
むしろ、いかに厳しく神に仕えていくかが証しされたほうが、身の回りの人々の信仰に役立つのではないか。

「パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して」と10節にある。

パウロは幻を見て、神の御旨を確信した。
これはたいせつなことである。

神の御旨はどうしたらわかるか、と聞かれることがある。
それは幻である。

そうかなと思えばそう思え、違うかなと思うと違うように思えるものである。
そうしたものを、自分にとっては神の御旨であると確信することなのである。

自分のことで恐縮だが、私は昨年4月1日に床を蹴って立ち上がった。
実は、3月13日に「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」という聖書の言葉に接し、どうしてそんなにこわがるのか」とのイエスの言葉も聞いて、病床に伏しておるべきではないと信じた。

それから4月1日まで悩み苦しんだが、決心して立ち上がった。

教会の人々は非常に心配してくださった。
しかし、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」という言葉を、「榎本よ、おまえはここで何をしているのか」と聞いたのである。

これは私にとっての幻であった。

人々は、立ち上がってそれで死んだら証しにならないではないかと言ってくれた。
私の心も騒いだ。

しかし最後に「自分はあのとき、立ち上がることが神の御旨だ」と確信した。
それなら、たといそれで死んでも、人々からどう言われてもかまわないではないか」と心が決まった。
それが神の言葉に自分の生涯をかけることだと思った。

聖書を静かに読んでいくとき、その言葉が自分への語りかけと受け止められたら、それを確信して、命をかけていくことである。
心にふと浮かんだものを御旨だなどと考えるべきではない。

God Bless You!!


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