2021年5月26日(水)の手紙

2021年5月26日(水)


『この問題について審議するために集まった。』使徒行伝15章6節


この章はエルサレム会議の出来事を記している。

「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と主張したユダヤ主義者と、「イエス・キリストの十字架はユダヤ人もギリシヤ人も、男も女もすべての人を義とする恵みである」とキリストの十字架の大きさを信じた人々との間に、少なからぬ争いがあり、その解決のために使徒たちがエルサレムに集まった。

6節に「この問題について審議するために集まった」とある。
2節には「この問題について協議することになった」とあった。
協議するつもりで行ったところ、審議がなされた、ということである。

信仰は協議でできるものではない。
多数決で賛成の多いほうを採用するようなものではない。
そこでは神の御旨が何であるかを見きわめることがなくてはならない。

それは協議ではなく、審議である。

教会はともすれば、審議すべきものを協議しやすい。
みんなが納得し、賛成することを正しいとしやすい。

教会において、特に信仰においては、10人のうち6人が賛成したからといって、それで真理になるのではない。
すべての人が反対しても、神の語られることこそ真理なのである。

そういう意味で、神の御旨が何であるかをつまびらかにしていくことが、教会生活にとってたいせつである。

神の御旨が明らかにされ、私たちがそれに従うとき、神は御業をあらわされる。
そのことなしに、どんなに人間が力を合わせても、それが神の御旨に反するならむなしい。
詩篇の記者が「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」と言っているとおりである。

「協識した末、……派遣することに決めた」と22節にある。
こういうことは協議できる。
だれを使いに出すかというようなことは、みんなの意見を聞いて決めてよい。

しかし神に関すること、福音に関することは、協議の対象であってはならない。
それは審議の対象である。

これは人間の側から見ると独断的なものである。
その結果に対しては、神の前に一人一人が責任を負わねばならない。
これが神の御旨であると確信したなら、たとえそのために命を捨てるようになっても、その御旨を信じ、貫かねばならない。

教会が審議したとき、そこでは「神がどうなさったか」が問題となった。
ペテロが立ち上がってその証しをした。
バルナバとパウロも「神が行われたこと」を報告した。
そしてヤコブが聖書から結論を出した。

模範的である。
私たちも見習いたいものである。

God Bless You!!


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