2021年5月24日(月)の手紙

2021年5月24日(月)


『「アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。」使徒行伝13章1節


この章にはパウロの第一回の伝道旅行が記されてい

アンテオケの教会にはいろいろな人がいたと記されている。
その中のニゲルと呼ばれるシメオンは黒人であり、領主へロデの乳兄弟マナエンは身分の高い人であった。
そういういろいろな人たちが、教会の中では兄弟姉妹として交わっていたのだ。

私たちは差別というものを無意識のうちにする。
人とくらべて自分はすぐれていると思い、安心しようとする。

その具体的なあらわれが、ルカによる福音書第18章のパリサイ人である。
彼はかたわらの取税人と自分をくらべ、自分のほうが宗教生活ができており、神の前には自分のほうがすぐれていると思って安心していた。

一方、くらべられた取税人は、神の前の自分を思ったので、胸をたたいて神の憐れみをこうた。
彼にも強盗とくらべると自分の優位を主張することもできたろう。
しかし彼はそうしなかった。
そこに、神からの大きな慰めをいただく理由があった。

聖書は、人と比較して安心するのではなく、神の憐れみによって安心していけと教えている。
自分は罪深い者ではあるが、子よ心安かれ、汝の罪ゆるされたりと語ってくださる神の隣れみの中で、心を安んずるのである。

そこでは、自分だけではなく他の人もまた罪ゆるされた人であるとの信仰が働き、その人との間に交わりが生まれる。

この人のためにもキリストは十字架にかかってくださったのだと信じて受け入れるということは、なかなか困難なことである。
その人の上に注がれている神の愛よりも、その人の言葉とか行為といったもののほうが目につきやすい。
けれども、その人の上にも神の愛が注がれていると認めることが、信仰である。

なぜあのような人を神が愛されるのかと考えてもわからない。
ただ聖書に、キリストはその人のためにも死なれたと書いてあるがゆえに、キリストにあってその人を愛するよりほかにない。

その意味で、キリスト教の愛は、感情ではない。
意志の愛である。
その意志は、信仰にもとづく意志である。
だからこそ信仰なしに人を愛することはできないのだ。

このキリストにある愛の交わりは、キリストにあってすべての人を受け入れていくものであり、一人一人の特色がそこなわれることがない。

みんなで辛抱し合ったり、だれかに押さえつけられている全体主義的な結合ではない。
一人一人が自由に生きることができる。
そしてその基盤が同じキリストであるから、一つの目的のもとに結び合わされていく。

そこにキリストのからだなる教会の次があるのだ。

God Bless You!!


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