2021年5月23日(日)の手紙

2021年5月23日(日)


『教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。』使徒行伝12章5節


初代のキリスト教会を揺さぶったものの一つは、ユダヤ人からの迫害である。

ユダヤ教を厳守してきた彼らは、キリスト教を異端視し、キリスト教徒を迫害することが、神に対する忠実な考え方であると思っていた。
それを見ていたヘロデ王は、自分の人気の回復と維持に好都合だと考えて、ヨハネの兄弟ヤコブを殺し、教会の中心人物であるペテロも捕らえた。

このような世の権力に対して、キリスト教会は、抗議も抵抗もできなかった。
「教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた」。
神に祈り求める以外に道はなかった。

しかし、日本語聖書では出ていないが、「教会では」の前に「しかし」という意味の言葉がある。
権力者がペテロを捕らえ、それに対して何も抵抗できない。
普通ならばもうだめだとあきらめる。

「しかし」教会はあきらめなかったというのである。
信仰とはあきらめないことである。
あきらめるのはすでに罪であり、これほど大きな不信仰はない。

全知全能の神を信じるとは、どんな状態にあってもあきらめず、望みを持つことである。

初代の教会はこの世的にはまったく弱かったが、望みえないときにもなお、望みつつ信じる強さを持っていた。
今日の教会は彼らにくらべればはるかに人も多く、金も知識も、この世に対する影響力も持っている。

しかし、それらがどれほどあっても、信仰において弱いならば、もはや教会とは言えない。
教会はこの世に対して弱くても一向に差し支えない。
しかし望みえないときになお望みに生きる強さを決して失ってはならない。

「早く起きあがりなさい」、「帯をしめ、くつをはきなさい」、「上着を着て、ついてきなさい」。

ペテロに対して御使いは「なさい」「なさい」と言った。
これは神の言葉の特徴である。
神はいつも私たちに「……なさい」と言われる。

「なさい」とは、応答を求める言葉である。
聞き流してはならない言葉である。

私たちはともすれば、神の言葉を聞いても、なるほどそういうことかと聞き流し、第三者的に聞く。
しかし「なさい」という神の言葉は、私たちを当事者にする。

イエスと答えるか、ノーと答えるか。
その中間はありえない。
傍観者になることは許されないのだ。

「彼はそのとおりにした」、「ペテロはついて出て行った」。

ペテロは神の言葉に応答した。
そのとき神の世界にふれた。
鎖はとけ、扉は開いた。

神の言葉に応答するなら、神の世界に呼吸する者とされるのである。
そのとき、神はもはやただの話の世界でなく、現実となる。
それが神との出会いである。

神の言葉に聞き従うとき、神の現実が私たちに開かれ、神の愛と配慮の世界を知る。
このことなしにどんなに考えても、考えることでは決して神を知ることはない。

God Bless You!!


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