2021年5月2日(日)の手紙

2021年5月2日(日)


『マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて……。』ヨハネによる福音書12章3節


『その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた」。

それは弟のラザロがよみがえったことに対する感謝であった。

命というものは、命によってしか代替することができない。
私たちは復活に対する理解が足りないのではないか。

イエスが復活された。
私たちもまた復活の命にあずかっている。

しかし、それはイエスが命を捨てることにおいて、はじめて与えられるものであることを、私たちは忘れ、それを軽く見ているのではないだろうか。

この第12章のテーマは「死と命」だと思う。
私たちは命を非常に尊ぶし、またそれを求めている。
しかしイエス・キリストの死において、ラザロのよみがえりがあったのだ。

そのイエスを、ありありとマリヤは見ていたのである。
マリヤは自分の弟は死んだが、もう一度生き返ってほしいと思ったことであろう。
それをイエスがよみがえらせてくださった。

しかしそれは単純には喜べない。
なぜなら、イエスはその死を自分が引き受けることにおいて「ラザロよ、出てきなさい」と言われたのであって、無責任に言われたのではなかったからである。

そういう点で、マリヤが高価なナルドの香油をイエスの足に塗ったのは、マリヤの信仰告白である。
あなたは、私どものために命をお捨てになるかたですという告白なのだ。

だから、イスカリオテのユダがもったいないことをすると言ったのに対して、イエスは「この女のするままにさせておきなさい。
わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから」と言われたのである。

イエスが死ななければ、私たちは永遠の命を与えられない。
イエスはまさにそのことをなさるためにエルサレムに上られた。
その途上においてラザロをよみがえらせ、ご自分の行く道を示された。

よみがえったラザロも、やがて死ぬ。
だから問題はむしろ、肉体の生死を超えて、永遠の命を私たちに与えるためにご自分が死なれたということである。

その死のうとされているイエスの姿を見抜いて、マリヤは最善のものをささげた。
マリヤのようにこたえていくことが私たちの信仰生活である。

私たちは自分自身をふり返ってみて、私のために死んでくださったイエスに対して、あまりにもふさわしくない歩みをしているのではなかろうか。
深く反省したい。

人は、そんなにしなくてもいいと言うかもしれない。
信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、貧しくなったりしていくのはおかしいというのが、イスカリオテのユダの論法である。

私たち信仰する者にとっては、イエスの命が注がれたのであるから、何をもってこたえたとしても、十分なこたえにはならない。
そこには他人の理解できない世界がある。

God Bless You!!


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