2021年5月19日(水)の手紙

2021年5月19日(水)


『さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら……。』使徒行伝8章4節


ステパノが殉教することによって、「エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った」。

6、7、8章を見ると、祈りと御言葉の御用にもっぱら当たっていた使徒たちよりも、日常のことに専念するために選ばれた信者たちのほうが、目覚ましい働きをしている。
使徒たちはふえてきた信者の群れの運営とか配慮を考えていたが、信者のほうはもっと自由であった。

迫害を受けたら避けることができた。
あとのことは責任を感じなかった。
そういう人たちのほうが使徒たちよりももっと神のために働くことができたのである。

私は辻宣道牧師の本を読んで胸が熱くなった。
彼の父は牧師であったが、戦争中警察に捕らえられた。
信者は教会に来なくなり、家族だけで礼拝を守っていたが、とうとう彼の父は病気になってしまった。
信者たちはかわいそうに思っても、近づいただけで捕らえられるので訪問もできない。

ついに父の死の通知が刑務所から届き、母といっしょにリヤカーで遺体を引き取りに行くと、遺体は冷たいコンクリートの上に置かれていた。
火葬場にはだれも来ず、母と小さな子どもだけで葬った。
その小さな子どもが、牧師になったのである。

一方、戦争中の日本の教会の指導者は、信者を迫害から守らねばならないと考えて、軍部に妥協した。
当時の教団議長は伊勢神宮に参拝した。
信者に対して非常に配慮した教派は、日本の神と聖書の神は同じだというようなわけのわからぬことを言って妥協した。

だから迫害はなかった。
しかしほんとうの信仰は死んだ。

礼拝は守られた。
しかしほんとうの神への礼拝ではなかった。

そういう苦い経験を私たちはしてきたのである。

信仰を持ち続けるためには、信仰か、生活や家庭か、どちらを取るかというところに立つときがある。
そのようなとき、私たちははたしてどちらに行くか、生活を大事に考え、信仰に顔だけ向けて、足はこの世の現実の生活へ行ってしまうようなことはないであろうか。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」というイエスの厳しい言葉は、私たちに決断を促す。

そこでは、この世が敵になり、親しい人や血肉を分けた人たちが自分を理解せず、変わり者だとか、迷惑な者、ばか者と呼ぶようになることを覚悟しなければならない。

私たちは、聖霊を受け、強い信仰者、立派な信者になりたいと考えている。
きわめて楽天的である。

受けることよりも、捨てることをもっと本気で考えるべきである。
エルサレムの信者たちはエルサレムの生活を捨てて、散らされ、そこで力強い働きをしたのである。

God Bless You!!


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