2021年5月14日(金)の手紙

2021年5月14日(金)


『ナザレスイエス・キリストの名によって歩きなさい。』使徒行伝3章6節


第3章は「美しの門」に座っていた生まれながらの足の不自由な男が、ペテロの言葉によっていやされたという一つの事件を取り上げ、そのことからイエス・キリストの到来は何を意味し、何をもたらしたかを証ししようとしているところである。

その男は、イエス・キリストの名によって歩めという言葉を聞いて、躍り上がって新しい生活に入ることができた。
それを見て、おおぜいの人が不思議に思った。

その人たちに対してペテロは、イエスが来られたのは、私たちを悪から立ち返らせて、福音にあずからせるためであると語った。
福音の世界の到来を一人の人の新生によって示したのである。

私のためにイエスは十字架について死んでくださった。
それでは、私は神のために何を捨て、何をささげていくのか。
人が捨てないものを捨てねばならなかったり、人が楽しんでいるとき、自分だけ苦しむこともあろう。

失うこと、非難されること、人知れず涙を流すこともあるだろう。
しかしそういうときにこそ、私たちはイエス・キリストに出会い、その無限の慰めを与えられるのではないだろうか。

そして、ナザレのイエス・キリストの名によって歩むとき、いままで味わうことも見ることもできなかった神の福音によって、躍り上がって喜び、賛美する生活へと変えられていくのである。

イエスの名を信じる信仰がなければ、イエスの名も私たちの内に力を発揮しない。
私たちが旧態依然としているのは、イエスの名を知りながら、それを信じる信仰を持たず、それにのみ依り頼んでいこうとしないからである。

私たちが人に頼り、金銭に頼っている間は、イエスが来られたことによってもたらされた福音にあずかることはできない。

「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っている」とパウロは言っている。
イエス・キリストにあって、私たちのすることが決してむだにはならないという世界に、私たちは入れられている。
だからこそ私たちは躍り上がって喜ぶ。

その世界に生きるまでは、どんなに自由であっても、また多くのものを持っていても、それは「美しの門」に座っていた男と同じである。私たちは「美しの門」のそばに置かれるためにいるのではない。
その内に入るために置かれているのである。

私たちが、ナザレのイエス・キリストの名によって歩むというイエス・キリストの御業にふさわしく生きていくとき、私たちは「美しの門」から宮に入り、祝福にあずかる生活に生きる者となるのではないか。

お互い人々が不思議に思うほどに、生活が変えられた者となろうではないか。

God Bless You!!


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