2021年5月11日(火)
『舟の右の方に網をおろして見なさい。』ヨハネによる福音書21章6節
夜通し魚をとりに行ったが何もとれなくて、あせりと疲れで茫然としている弟子たちに、イエスは舟の右のほうへ網をおろしてみなさいと言われた。
聖書では右とは神の側をあらわし、左というのは、人の側をさす。
考えてみると、いままでは人の判断や努力だけで自分たちはやってきた。
しかし、神の力と神の御心に従ったら、すなわち、「舟の右の方に網をおろして見なさい」という御言葉に従って網をおろしたら、魚がたくさんとれたというわけである。
これは、イエスが指揮者になったからである。
私たちの人生においても、だれが指揮者になっているか、あるいは教会の指揮者はいったいだれであるかということがたいせつである。
教会において、私たちの信仰生活がなされていくためには、やはりイエスの指揮に合わせていかねばならない。
自分としてはもっとできることがあっても、それを抑えなければならない場合もあるだろうし、また自分に自信がなく、できそうにないと思うときにも、自分一人でしなければならないときもあるだろう。
とにかく、私たちのすべてを知っておられるイエスによって一人一人が動いていくところに、教会の姿があると思う。
それがパウロの言う、肢体とからだ全体との関係だと思う。
それぞれが別の働きをしながら、その一つ一つが自分というものをなくしていったとき、調和のとれたからだの働きがある。
それは教会だけでなく、私たち個人の信仰生活においても言える。
私たちの人生が、神の指揮棒によって操られていくというような人生が、ほんとうのクリスチャンの人生だと思う。
クリスチャンといえば、愛の業をしたとか、こんなすばらしいことをしたとか、その人の行為というものが非常に尊ばれやすいが、そうではなく、この人がいかに神の指揮棒に従って生きたかということが、クリスチャンの評価の基準なのである。
イエスはわずか三年余りの伝道の生涯であったが、精魂を打ち込まれた。
この世的に見ればイエスの伝道は失敗であった。
弟子はみな逃げてしまい、自分は十字架につけられた。
しかし、それを神の御心だと信じ、あえて十字架の道を進まれたのである。
失敗したかどうかが問題ではなく、神の指揮棒に従って生きたかどうかが問題なのである。
私たちはともすると人間の判断やこの世の基準を大事にして、人からとやかく言われない生活をしていきたいということに、人生の決定権を与えているのではなかろうか。
左のほうに網をおろすことと、右のほうにおろすこととは、ちょっとした違いでしかないようだが、永遠の違いをもたらすものである。
そのことを私たちの生活の中で深く反省ししなければるならない。
God Bless You!!
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