2021年5月1日(土)
『この病気は死ぬほどのものではない。』ヨハネによる福音書11章4節
第2章と12章において、ラザロのことが記されているが、一人の人物についてこれだけ長い記述がなされているのは、新約聖書の中ではラザロだけである。
聖書がこれほど長い部分を用いているのは、このラザロの復活が、私たちにとって大きな意味を持っているからにほかならない。
以前私は、Kという青年を知っていた。
貧しい家の息子で、小さな町工場に勤めていた。
彼が結核のため療養所に入っているとき、キリスト教信仰にふれ、そして病気がなおってから私の牧会する教会に来るようになった。
病気がなおり、やっと会社に出られるようになったと喜んでいたが、しばらくして病気が再発し入院した。
どんなにつらい思いをしているかと心配して見舞いに行ったとき、彼は非常に晴れやかな顔をして言った。
「先生、聖書を読んでいたら、この病気は死ぬほどのものではない、という御言葉を与えられました」。
その晴れ晴れした顔を見たとき、私はなんとも言えない自分の不信仰を示された思いがして、偉いやつだなと思って帰ってきたことを、いまもって忘れることができない。
御言葉というのは、これほど人に力を与えるものなのだ。
それはイエスがラザロについて言ったことではないか、と私たちは思いやすいが、彼は自分に語られたこととしてこの御言葉を聞くことができた。
御言葉が彼の中に生きている。
それが聖霊の働きである。
しかし彼は四、五年前に妻子を残して死んだ。
やはり結核で死んだのであるが、そうするとこの病気は死ぬほどのものではないという御言葉はどうなったのかということになる。
死ぬほどのものではないということは、この病気では死なないという意味ではなく、この病気は死ぬためにあるのではなくその目的は神の栄光にあるという意味である。
人間の生死が問題ではなく、神の栄光のため、神の子がそれによって栄光を受けるためである。
彼が入院した当時、国立病院では伝道が許されなかったが、彼が入院し、見舞いに行くことから、そこに伝道の道が開け、多くの人が信仰に導かれた。
ほんとうに彼の病気は、神の栄光をあらわした。
仮に立派な家に住み、地位も与えられ、人もうらやむ生活を送ったとしても、それだけであるなら、その人の人生は非常にむなしいものだと思う。
彼は貧しい家に生まれ、肉体もむしばまれた。
あるいは金持ちだったらもっと長生きできたかもしれない。
しかし若くして死んでいった彼の死によって、神の栄光があらわされたことを考えると、彼の死は単なる死ぬためのものではなかったわけである。
「この病気は死ぬほどのものではない。
それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。
この言葉は真実である。
God Bless You!!
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