2021年4月9日(金)の手紙

2021年4月9日(金)


『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。』ルカによる福音書13章8節


「ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し……」とあるが、これは独立運動をした首謀者が捕らえられ、残虐な殺され方をしたことが記されているものである。

それに対してイエスは、「ガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
あなたがたに言うが、そうではない。
あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と言われた。

災難にあったのは、その人たちが神から特別に刑罰を受けたのではなく、おまえたちも同じである。
またシロアムの塔の下敷きになって死んだ人たちも、特別に悪いのではない。
エルサレムの他の住人と同じだ。

すべての人が悔い改めなければ、みな同じように滅びるのだと言われたのである。

「ある人々がきて」と1節にあるが、この人たちはいつも問題を、第三者の側においている。
あの人たちはどうなのか、この人たちはどうなのかと、自分が神の前にどのような存在であるかを忘れ、あの人は、この人はという信仰態度である。

それに対してイエスは、「人は問題ではない、あなたが問題なのだ」と言われたのが、このところの主旨である。
あなたにとって大事なことは、あなた自身が悔い改めることだと言われたのである。

私たちは神の前にみずからが恐れ、おののきながら立つということを忘れてしまいやすい。

私は祈りをするたびにひざをなでる癖がある。
世光教会のときはひざの破れたズボンが一、二着あった。
ほんとうにズボンがぼろぼろになるまで祈った時代があった。

最近はズボンも何着もあるからすり切れないのかもしれないが、ただそれだけではなく、なにかしらあのときのような全身をもって神にぶつかっていく真剣さが欠けてきているのではないか、ほんとうは自分の信仰に問題があるのではないかと考えさせられた。

何年も教会生活をしているとか、クリスチャン・ホームに育ったということが、自分の心をかたくなにして、自分こそ悔い改めなければならない者であるという、やわらかい謙虚な心になれない。
裃をつけ肩をいからせて、自分の中には何もないのに、人前だけでいばった生活をしている。

神の前に恐れおののかなければならないのは、そんな私なのである。

God Bless You!!


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