2021年4月7日(水)の手紙

2021年4月7日(水)


『父よ、御名があがめられますように。』ルカによる福音書11章2節


主の祈りとそれに伴う祈りについてのイエスの教えが、13節までのところに記されている。

イエスは、まず「父よ」と祈れと言われた。
この父というのは、お父さんのようにやさしい人という意味ではないし、人間の世界の父という意味でもない。

子なる神、イエスを送り、私たちの罪やけがれを十字架の前に洗い清め、私たちを子としてくださった神という意味である。

イエス・キリストによって、神は私たちの父となられた。
本来なら「父よ」とは言えない私たちが、キリストのゆえにいまは養子とされ、全知全能の神を私たちの父であると呼びうるところに、大きな喜びがある。

「御名があがめられますように。御国がきますように」。
これは夜警が、朝が来るのを待つように、いまはまだ完全に実現していない神の支配の実現を待つ祈りである。

いまは、東の空が明るくなっただけであって、太陽はまだ昇っていない。
だからまだ暗さが残っている。

しかし、どんなに暗さがおおっていても、太陽が昇ればその暗さはなくなる。
私たちにとっていちばん根本的なことは、御国が早く来ますように、御名があがめられますように、ということである。

しかしそれまでの間、暗さが取り除かれるよう努力しなければならない。
現実に神が支配される世界を待ち望みつつ生きていくところにクリスチャンの生活がある。

「わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください」。
「わたしたち」という中には、飢えている人や、気の毒な人がいる。
毎日の祈りの中で、はたしてインドやアフリカで飢えている、まだ夜が明けない暗さの中にいる人たちのために、私たちは祈っているだろうか。

「わたしたち」と複数で言われているのは、私だけでなく、隣人、親族、また私に対しては敵であるような人も含まれている。
そう考えると、日ごとの食物を、日々お与えくださいと祈るのは、愛の祈りとなってくるのだ。

「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」。
これは、私たちの罪がゆるされた。
だから罪のある、負い目ある者をゆるすことができるようにしてください、という祈りである。

「わたしたちを試みに会わせないでください」。
これは、イエスが人間に謙遜を教えられたことだと思う。

イエスを信じることは、なにか超能力を持つ人間にでもなるように思い、病気、災い、何でも来いというふうな生き方をする人があるが、それは敷慢である。
人間は弱い者であることを思い、試練にあわせないでくださいという祈りを持っていかねばならない。

God Bless You!!


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