2021年4月6日(火)の手紙

2021年4月6日(火)


『何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。』ルカによる福音書10章25節


よきサマリヤ人の譬えは、ルカ特有の記事である。

25節の言葉は、いままでの預言者や王たちが願いつつ見られなかった新しい世界が、いまやイエスによって開かれたという新しい展開を示すたいせつな言葉である。
しかも、私たちは代価を払わずに、そのすばらしい新世界を見ることができるようになったのである。

イエスによって、新しい創造された世界が来たことを聞いたとき、一人の律法学者が、イエスを試みようとして言った。

「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。さ

らにイエスの問いに対して、「心をつくし精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」と答えた彼に、「あなたの答は正しい。
そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」とイエスは答えられた。

しかし、問題はそのとおりに行えない人間の弱さにある。
そのとおりに行えるなら、イエスの十字架は必要ない。
私たちは自分を愛するように、自分の隣人を愛することはできない。

ただ、神だけを愛していくこともできない。
自分の気に入る人は愛せても、そうでない人を愛することはできない。
人を愛しているように思っても、結局は自分を愛している。私たちはそういう弱さを持っている。

一生懸命隣人を愛していた律法学者が、「ではわたしの愛さなかった隣人はだれであるか」とイエスに尋ねたのに対して、サマリヤ人の譬えが語られたのである。

祭司とレビ人は向こう側を通っていった。
向こう側とは、自分の側のことである。
それに対して、サマリヤ人は近寄ってきた。
それは自分の立場を出る、自分が死ぬ、減びる、なくなることである。

愛は、自分の立場に立てば生まれてこない。
自分が生きたまま人を愛しているのは、自分を愛しているにすぎない。

律法学者は、祭司やレビ人同様に、自分の我によって愛することのできる者だけを愛していった。
それに対してサマリヤ人は、自分の我を出て、自分の持っているものを差し出し、人を愛していった。
イエスはそこにほんとうの隣人を愛する愛があると言われたのである。

いままでの律法の宗教は、神が神の立場に立って人間を愛しておられたが、イエスが生まれ、地上に生きておられることは、神が人間の世界に下りてこられ、神が神であることをやめて、私たちを愛そうとしておられるのである。

だから新しい世界はイエスが来られることによって始まった。
すでに永遠の生命は来ているのだから、私たちはその永遠の生命を感謝して受け取りさえすればよい。
それがよきサマリヤ人の譬えのメッセージである。

God Bless You!!


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