2021年4月4日(日)の手紙

2021年4月4日(日)


『神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか……。』ルカによる福音書8章39節


「そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられた」。

イエスがなさったことは、あなたがたはこういうことをしなければならないとか、人間としてこのように歩むのが正しいというような説教ではなく、神の国の福音を説き、また伝えられたのである。

すなわち神の国が近づいた、汝ら悔い改めて福音を信ぜよと言われたのである。
私たちが生きているこの時代に、近づいてきた新しい世界を、福音は告げたわけである。

私たちは日曜日の礼拝説教に、もっと具体的に役立つことを教えてほしいとか、もっといまの時代にふさわしい話をしてほしいという要求を持つものだが、礼拝で説教することは、やはりイエス・キリストによって始まった新しい時が告げられ、その新しい時に対して私たちがどのように応答していくかが語られねばならないのだ。

私たちの世界が、生きている時がどんな時であっても、神の時が始まっている。
もはや神の愛の中に入れられている。

なるほどいまは暗いかもしれない。
しかしイエス・キリストが来られたいま、その暗さは夜明けの暗さなのである。
私たちはイエス・キリスト、すなわち夜明けの明星がラキラと輝くのを見ているのだ。

夜明けにいるのだ。
明るい時が始まろうとしているのを告げられ、そして朝に向かって生きていくことこそが、私たちの信仰生活である。

昔は、今治教会もそうであったが、教会は鐘を鳴らしていた。
教会が鐘を鳴らすのは、イエス・キリストがあらわれたことを意味していた。
その鐘を、どのように聞くかは、その人自身の問題である。
これが教会の宣教なのだ。

私もそうであるが、宣教は私がしなければならないというふうに考える。
伝道は人間が気負いすぎると、その本質をまちがえてしまう。
人間はただ宣べ伝えていくだけである。

ただし、それは私たちの人格、性格を通して告白されていかなければならない。
私たちの証しにしても、説教にしても、なんとかして人に理解させようというふうに思いすぎると、かえって福音の宣教というものからはずれてしまうものだ。

ただ、福音を伝えていくことが、私たちの仕事であることを忘れてはならない。

God Bless You!!


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