2021年4月27日(火)の手紙

2021年4月27日(火)


『わたしの時はまだきていない。』ヨハネによる福音書7章6節


兄弟たちがイエスに、あなたも仮庵の祭に行こうではないか、そこであなたの業を示したら、多くの人が信じて教えを聞くようになるだろうと進言した。

信仰は人間が生まれながらに持っているものとか、その人の能力によるもののように思うとまちがいであって、キリスト教信仰は与えられるものである。

「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」。

きのうまでイエスに対して不敬度なことを言っていた者でも、きょう、聖霊を与えられるなら、イエスは主であると告白できる。

キリスト教の迫害者であったが、その後キリストの僕となって生涯を送ったパウロがそのことを最も雄弁に示している。
それは人間の成長論からは考えられないことである。

信仰は与えられるものであるゆえに、私たちにはいつも大きな希望があることを覚えていきたい。

イエスの兄弟たちは、「自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません」と言った。
イエスがいままでなさったことを、隠れた仕事と評価しているのはおもしろい。

見方によっては実際イエスはそういうかたであったと思う。
一人の病人をいやしたり、水をぶどう酒に変えるようなことはされるが、この世をひっくり返す革命家のようなことはなさらなかった。

もっと社会の悪に対して、公然と立ち向かっていくような、漂々しい姿であってほしいと思っても、イエスはただ貧しい人の友となり、病人をいやしたりしておられる。
そこにまどろこしささえ感じるのだ。

しかし、イエスはそういうこの世の期持を、いつも裏切るかたではないかと思う。
そういう意味でイエスに従っていく者の道は、おのずから決まっているように思う。

イエスは兄弟たちに、「わたしの時はまだきていない」「わたしの時はまだ満ちていない」と言われた。
これはイエスがいかに神の御旨をたいせつにされたかを示している。

神の御旨であると確信づけられたとき、イエスはそのことに邁進され、そうでないときは、世間の人がどんなに言っても動かれなかった。

私は長い間、死ぬということはどういうことであろうかと悩んだ。
自分に死ぬとは、神に生きることであり、神の御言葉に従うことだとわかったときには、大げさなようだが、悟りを開いたような気がした。

私たちも親として、子として、社会人として、いろいろの都合がある。
その都合を先にすれば神の言葉には従えない。

イエスは、宮もうで一つにしても神の御旨を求めていった。
「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。

私たちも神の御旨をわきまえ知る知恵と力を与えられていきたいものだと思う。

God Bless You!!


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