2021年4月24日(土)
『イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。』ヨハネによる福音書4章4節
イエスは「ユダヤを去って、またガリラャへ行かれた。
しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった」。ユダヤからガリラヤに行くには、必ずしもサマリヤを通らねばならないことではなかった。
何かの事情でそうなったのかもしれない。
しかしイエスが選んで行ったのではなく、通過しなければならなかったと書いてあるように、しいられることがイエスにもあった。
私たちの人生にも、特に信仰生活においては、しいられるということがある。
よく受洗する前に、洗礼を受けたら教会でいろいろ束縛を受けるのではないかと、心配そうな顔をする人があるが、私はそのような人に、もちろん束縛はある。
束縛を受けないで神の恵みだけいただこうというのは、泥棒みたいなものではないかと言う。
自分が恵みにあずかろうと思えば、そこで神と真実な交わりがなければならない。
そこにはすでに束縛がある。
確かに「通過しなければならなかった」という言葉の中に、やむをえずその道を通らねばならなかったことが示されている。
しかし、そこに大きな宝が隠されていた。
イエスはその道を通られることから、サマリヤの女に話しかけられ、彼女を信仰に導くことができたのだ。
さて、イエスはサマリヤの女と水問答をされたあとに、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」と言われた。
せっかく水の話をしておいて、いよいよのときに、夫を呼んでこいと話を変えられる。
そして「今のはあなたの夫ではない」と言われた。
その真意は何であったのか。
それは自分を隠したままで、神の恵みだけをいただこうとする者に対して、イエスはそのほんとうの姿をありのまま引きずり出そうとされたのではなかっただろうか。
あなたがどんなにけがれ、罪深い者であっても、永遠の命に至る水がほしいなら、あなた自身が神の前に出なければならないと言われたのである。
それに対して女は礼拝する場所はどこかという、神学的な論争を持ち出してきた。
イエスはそれに対して、神学的にどんなに高等な議論であっても、それに隠れて、自分が神の前に出てこないのならばだめであり、礼拝は場所が問題ではなく態度であることを告げる。
霊とまこととを持って礼拝しなければならない、と言われたのだ。
まこととは、神の前に自分をさらけ出すことである。
第三者の立場に立とうとするサマリヤの女を、神と私との関係に立たせたのである。
そのとき私たちは、イエスに対してイエスかノーか、どちらか言わねばならなくなる。
そこに信仰の世界の厳しさがある。
私たちは安全地域にいつもいようとするが、そのところから自分自身が神の前に出ていく生活、それがまことの生活である。
God Bless You!!
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