2021年4月22日(木)の手紙

2021年4月22日(木)


『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい。』ヨハネによる福音書2章5節


ここには、ぶどう酒がなくなるという事件を、栄光をあらわす場に変えられるイエスが示されている。

ぶどう酒を象徴的に理解すると、それは私たちを喜ばすものということである。
私たちの人生の楽しみは、健康であるとか、家庭円満であるとか、そういうものである。

しかしそれがちょっと狂うと、とたんに不安になったり悩んだり悲しんだりする。
それは、酒さえあれば楽しく婚礼ができるのに、酒がなくなったからだめなのだと悲観している人に似ている。

そこにはいつまでたっても平安も喜びもない。

しかし酒がなくなることによって、人間が造った以上の酒が造られ、それによってイエスの栄光を拝することができたのだ。
だから私たちはどんなときにも、私たちの家族に、私たちの人生の中に、イエスを迎えていることが大事なのである。

「これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである」とある。
死ぬことは人間にとっていちばんの不幸であり、だれでも恐れていることである。
しかしその死さえも、神の栄光をあらわす場所としてくださるのであれば、なにも人を恨んだり軽蔑したりすることもなくなる。

どんなときでもそれが神の栄光をあらわすときであるならば、私たちはそれを感謝すればよい。
すべてのことを感謝せよというのは、イエスによってすべてのことが感謝に変えられるということでもある。
どんなときにも、神の経倫の内にあり、神はすばらしい計画をしておられるということを信じるのがキリスト教である。

信じるとは、イエスを迎えるとは、イエスに従うことである。
イエスは私たちよりも先に、私たちのところに来てくださっており、私たちが迎えに行かなければ来てくださらないのではない。

ただ、来てくださっているイエスがどんな近くにいても、私たちが心を閉ざしておれば交わりはできない。
来てくださった以上、私たちはそれを迎える責任がある。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。

イエスは戸をたたいてくださっている。
私たちはその音を聞き、戸を開ける責任があるのだ。
その責任とは、かめに水をいっぱい入れなさいという、御言葉に聞き従うことである。

たとえ人から感心もしてもらえず、何の得にもならないようなことであっても、「かめに水をいっぱい入れなさい」との御言葉に従うとき、「最初のしるし」が、栄光の業が私たちの具体的な生活の中で行われる。

God Bless You!!


a:45 t:1 y:0