2021年4月21日(水)の手紙

2021年4月21日(水)


『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』ヨハネによる福音書1章29節


ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエスを紹介した。
この言葉は、旧約聖書を読むことによって、その意味内容を深く知ることができる。

ひとつは出エジプトのときのことである。
神は、イスラエルの家の柱とかもいに小羊の血を塗れと示された。
滅ぼす者は、小羊の血を塗られたイスラエルの家の前を、過ぎ越していった。

新約聖書にも過越の祭のことが出てくるが、それはこの出来事をいつまでも感謝し、覚えるために設けられた祭である。

神の小羊とは、イスラエルをその滅びから解放したものである。
世の罪を取り除く神の小羊という言葉は、まず第一に、世の人々、すなわち私たちを罪の減びから解放してくれるかたという意味である。

いま一つは、イザヤ書第53章の苦難の僕と言われる有名な預言の言葉である。
「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」。

この言葉に感動を覚える。
私たちのいっさいの不義、私たちのいっさいの罪を彼の上におき、そして彼が打たれることによって、私のいっさいの不義がなくなった。

キリストがあの十字架上で息絶えることによって、私たちの罪の根が断たれたのだ。
もう私は自分の不義、自分の罪に問われることはない。
いっさいの罪から断たれたという喜びをひしひしと感じる。
そこに私たちが慕い求めていくところの、イエス・キリストのすばらしい姿がある。

しかし、神がどんなにすばらしい愛の業をしてくださったか、キリストが切り刻まれ、私の罪のために死んでくださったということを聞きながら、私たちの心は燃えない。
私のために手にまめを作って働いてくれた人に対しては、非常な愛情を感じるが、私のために生命を捨ててくださったキリストのことは聞きながら、そこに感動を覚えることができないのはなぜか。

私は3年ほど前に約半年の間入院生活をした。
そのときに示されたことは、私の罪ということである。
私は決して完全な人間だとは思ってもいないが、聖書の言葉によって私が神の目にどのように映っているかを示されて、非常な恐れとおののきを感じた。

自分で自分は罪があると言うのではなく、神のほうからおまえは罪人であると言われたとき、それは非常に恐ろしいものである。
自分の罪がどんなにすごいものであるかを知れば知るほど、イエス・キリストの十字架の恩恵がいかに大きいかを知らされるのである。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。

神の子がこの卑しい私たちのために、十字架について死んでくださることによって、私たちの罪がゆるされたというメッセージを聞きながら、いままでと同じような生活しかできない私たち。
それは罪に対するもだえがないからである。

God Bless You!!


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