2021年4月20日(火)の手紙

2021年4月20日(火)


『イエスは生きておられる……。』ルカによる福音書24章23節


第24章は復活の記事である。
どの福音書にも、この復活の記事は記されてある。

13節からはエマオ途上の話である。
二人の弟子がイエスの復活について話していた。
そのとき、イエスご自身が近づいてこられたが、彼らはそれを知らなかった。

「『歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか』。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった」と書いてある。

イエスの復活を話しながら、そのことが自分にとって世の光にもならなければ、力にもならなかったのである。
自分と関係のない出来事として論じているときは、復活は何の力にも、喜びにもならない。

復活を信じることができない弟子たちにイエスは、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」と言われた。

イエスのよみがえりは聖書に記されている。
聖書の預言を信じない者が、どうして霊的事実をわきまえることができるだろう。
聖書は契約の書であり、すばらしい約束が書いてある。
それを本気で信じていない者、それがエマオ途上の弟子たちである。

だからいくらすばらしいことを学んでも、自分とは関係がない。
ただ悲しい顔をして立ち止まる。
聖書を読めば、いったいどこに悲しみ苦しむ私たちを神が冷たくほうっておくと書いてあるのか。
聖書の約束は、希望のないところに希望を与えてくれるものである。

イエスは聖書全体にわたって、ご自身について書かれていることを説き明かされた。
そのとき弟子たちの心がしだいに信じる世界に帰ってきた。

弟子たちは、私たちといっしょにお泊まりくださいとイエスを引き留めた。
そしてイエスは彼らといっしょに泊まるため、家の中に入り、食卓につかれた。
そしてパンをとり祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかったのだ。

そのとき彼らは復活の主に出会ったのである。

いままでは弟子たちが主人で、イエスが客であったが、イエスが主権をとり主人となった。
そのような主客の転倒が、従う、信じるということである。

私たちは、こんなときはどうしたらよいだろうかとか、どうぞ助けてくださいとか、イエスをまるで参考人や、あるいは助言者として迎えることが多い。
しかし、私たちの主人として迎える人は少ないのではないか。

彼らが自分の主権をイエスに譲り、イエスの前に謙遜になったとき、はじめて復活の主を見ることができた。
私たちも自分の信仰生活の中で、イエスがすべてであると自分をゆだねるときに、復活の主にお会いすることができるのである。

God Bless You!!


a:44 t:1 y:0