2021年4月17日(土)の手紙

2021年4月17日(土)


『また、ある貧しいやもめが、レブタ二つを入れるのを見て……。』ルカによる福音書21章2節


貧者の一灯という言葉があるが、確かに神の前にささげる額は問題ではない。
しかし、それはどうでもよいということではない。

ある人が献金の大きさはささげた額ではなく、残した額によって決まるのであると言ったが、大きな教訓を与える言葉だと思う。

この寡婦は生活費全部をささげたのだから、残るものはまったくない。
だからこれほど大きいものはない。
そこでイエスは、神の前に「だれよりもたくさん入れたのだ」と言われたのである。

献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくる感謝でなければならない。
いかに敬虔な思いを持ってささげても、信仰の伴わない献金は、どぶへ捨てるようなものである。
この寡婦の献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰の告白であったから尊いのだ。

しかし同時に、献金は残した額によるとは真実であるが、そうすると人間の善行や業によって、神が喜ばれたり、喜ばれなかったりするように思われてくる。

イエスがここでたいせつなこととして教えようとされたもう一つのことは、金持ちたちは投げ入れ、女は入れと書かれているところにある。
つまり、金持ちはこれみよがしに投げ入れ、人に誇ってささげた。
それに対してレプタ二つをささげた寡婦は、こっそりとささげたという面があるのではないかと思う。

イエスは「隠れた所においでになるあなたの父」とよく言われる。
神は隠れたところにおられるから、隠れたところで見ておられる神にささげていくべきである。
イエスは、献金は、神と自分との関係においてなされていくものであることを教えられたのである。

もし寡婦が、私は生活費全部をささげたということで、英雄気どりでいたら、ささげものは神の前には届かなかっただろう。
ささげた額、残った額という量の問題だけではなく、どういう姿勢でささげたかが問題になってくるのだ。

私たちは地上での報いを求めやすいが、神は地上での報いを求めえない人、また求めようとしない人のところにそっと近づいてこられる。
だれの目にもとまらなかったこの寡婦が、イエスによって見いだされたのである。

私たちは自分が何も持っていない目立たない者であると卑下したり、失望したり、またそのことで自分を軽んじたりしやすい。
しかし、イエスはそういう私を友として、そっと近づいてこられる。

私たちはそのことを思って、イエス・キリストにあって自信を持つべきである。

God Bless You!!


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