2021年4月11日(日)
『死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ……。』ルカによる福音書15章32節
15章には、一つの主題にもとづいた、力点の違う三つの譬え話が記されている。
イエスが取税人や罪人と友になられたことは福音書によく出てくるが、彼らは当時社会から差別されており、また差別されるような、冷酷であったり、自由放好な生活をしていた。
そんな彼らとイエスが話し、食事を共にするのを見て、パリサイ人や学者たちは非難した。
それに答えて語られたのがこの三つの譬えである。
三番目の譬えは、有名な放蕩息子の話である。
この放蕩息子は、父からもらった財産を使い果たし、身を持ちくずし、最後には飢え死ぬような状態になる。
「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」。
彼は、自分を、資格を失った者であると告白したのである。
資格の喪失者が、この父によってもう一度資格を回復することができた。
そこにこの放蕩息子の譬えの大きな意味がある。
息子としての資格の回復は、父からもう一度資格を与えられる以外に自分ではどうすることもできない。
神の御前に資格を失った者に資格を与えてくださるのがイエスである。
しかし長男は、自分が資格の喪失者であることに気づかず、弟が父から愛を受けるのを見聞きしたとき立腹した。
資格のある者にとっては、資格のない者を無条件でゆるしたり、資格を与えたりする神に対して、なにか不公平さを感じるのだ。
この放蕩息子の譬えでも、一匹の迷える羊の譬えでも、私たちは不公平ではないかと思う。
放蕩息子や迷える羊には非常に親切であるが、迷わない羊や、父のもとでまじめに働いていた兄に対しては冷たい。
迷った者、遊んだ者に親切にするのなら、迷わない、遊ばないまじめな者には、もっと大きなことをしてやってもよいのではないかと、一つの矛盾を感じるのだ。
実はパリサイ人や律法学者もそう感じた。
しかし、イエスはその人たちに向かって、あなたがたは自分が資格を失った者であることに気づいていないのだと言い放つ。
「わたしは悪人の死を好むであろうか」、「わたしは何人の死をも喜ばないのである」神は減びゆく者に心を砕かれる。
そんな者までゆるされるのなら、世の中はめちゃめちゃになってしまう、と私たちは思う。
しかしそこには、自分は資格のある人間であると思う倣慢があり、自分の罪深さに気づいていない姿があると、イエスは指摘しておられるのである。
失われていないと思っている長男には、どんなに説明しても、父の心を、すなわち福音を理解することはできなかった。
私たちが神から愛されたり、ゆるされたりする資格のない者であることに気づくところから、福音を喜ぶ生活が、このかたによらなければ私の救いははないという信仰が生もれてくるのである。
God Bless You!!
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