2021年4月1日(木)の手紙

2021年4月1日(木)


『そしてそのとおりにしたところ……。』ルカによる福音書5章6節


シモンのしゅうとめが高熱を出していたとき、人々がイエスに彼女のためにお願いしたと書いてある。
ペテロがお願いしたのではなかった。
さらに、1節〜2節を見ると、群衆はみなイエスから神の言葉を聞こうと押し寄せているのに、シモンは一生懸命網を洗っていた。

彼は、宗教的に敬度な生活をしていたというよりも、魚一匹とるほうを大事としていた男であった。
だからイエスが来ても、母親の病気をなおしてくださいとは頼まなかった。

8節の「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です』」という彼の告白と合わせて考えてみると、彼がどんな人であったかを想像することができる。

みんながイエスに神の言葉を求めているときに、彼は背を向けている人であった。
そのペテロがどうして信仰に入り、イエスの弟子になったのか。
それは彼が、ひとつの事実に出会ったからである。

イエスの言葉どおりにして魚がたくさんとれたことは、熟練の漁師であった彼には考えられないことであり、人知をはるかに超えたものであった。
そのとき、彼はいままでの意地を張っていた生活、むやみに反発していた生活が、いかに愚かなものであるかがわかった。

信仰生活には、人知を超えた神の力、働きにふれることがなくてはならない。
そここから信仰は始まる。

私たちが神を必要としているとか、信仰生活をするのがよいとか、それが信仰の原動力ではない。
神が私に迫ってきたから信仰せざるをえなくなる、福音を語らなければおれなくなるというものが、私たちの中に起こされてくるところに信仰の原型があるのだ。

神の言葉の威力、生きた神の現臨にふれるとき、人知をはるかに超えた神の愛、すなわち十字架のキリストに直面するとき、私たちの内に変革が起こってくる。
そして、何物も恐れず福音を伝える者に変えられ、人がまだ目で見ず、耳で聞かず、思いもしなかった世界に導かれる。

キリスト教が福音であり、恩寵であり、与えられる宗教であると言われるゆえんはここにある。

では、いったいどうすれば、その変革に、また神に出会うことができるのか。
その鍵は「そのとおりにした」という言葉にある。

キリスト教はどこまでも約束の宗教であり、その約束を履行することがいちばん大事である。
そのとおりにしてみたときに、はじめて聖書の言葉の真偽がわかる。

私たちはほんとうだろうか、うそだろうかとさまよううちに一生を過ごしてしまう。
そこには驚くような事件は起きてはこない。
しかし、それを約束であると信じ従うなら、そこで、私たちはいまも生きておられる神にふれるのである。
その神にふかれるところから信仰生活が始まる。

God Bless You!!


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