2021年3月7日(日)
『天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。』マタイによる福音書24章35節
第24章は、世の終わり、主の再臨についてイエスが教えたところである。
これを終末論、終末信仰と言う。
キリスト信仰は、何を目標にしているかというと、それは終末の時に神の前にゆるされ、神の民として迎えられるということである。
救われるとかゆるされるとは、いま災難から救われる、いまゆるされるというものではない。
イエスの十字架によってゆるされたとしても、この世で悪いことをすれば罰を受けなければならない。
ゆるされているのだから何をしてもいいというものではない。
私たちのゆるしは、この世のゆるしでなく、神の国でのゆるしなのである。
「わたしの国はこの世のものではない」とイエスがピラトに言われたことがある。
この世の救いが信仰の目標ではない。
必ずこの時代が終わる時が来るというのが、聖書の世界観であり、その時までは中間の時にすぎないのだ。
必ずこの矛盾に満ちている現実は終わる。
その終わりの時に、私たちは神の前に立たなければならない。
そこで主を信じる者は、キリストの義によって自分も神の義にあずかることができるという喜びを得るのである。
神のキリストに対する思いが自分にも向けられていることを信じるとき、はじめて救われたとかゆるされたという世界がどんなにすばらしいものであるかがわかるのだ。
私たちの信仰は終末に焦点を合わせていくものでなければならない。
そうでなければ、単なる修養や心がけというような、この世だけのものになってしまうのだ。
ノアのことが37節から記されているが、彼が箱舟に入ったのは、洪水が来るという神の言葉を信じて入ったのである。
私たちは自分で箱舟を造る必要はない。
いまはイエス・キリストが箱舟を造ってくださったのだから、その中に入りさえすればよい。
その舟に乗ること、それに乗ってこの世を出るということが、私たちの信仰である。
そこに終末信仰がある。
洪水になることは、すべての人に言われたことであった。
しかし多くの人々は自分の経験や常識で神の言葉をまともに受け止めなかった。
ただノアだけがその言葉に従ったのである。
今日においても、聖書は世の終わりがあることを告げている。
それをまともに受け止めて終末への備えをするところに、信仰者の姿があると思う。
God Bless You!!
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