2021年3月6日(土)の手紙

2021年3月6日(土)


『あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。』マタイによる福音書23章10節


あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである」とあるが、このことを徹底的に実行するのがアシュラム運動である。

アシュラム運動では、牧師も信徒もない。
みな一人の罪ゆるされた者として神の言葉を聞いていこうという運動である。

「だれも教師になってはならない。
だから、だれも、人に対してこうしなさいとか、こうしたらよいというようなことを言ってはならない」と私はオリエンテーションのときに言う。

ある人が、自分はこんな悩みで悩んでいると言うと、それはこうだと無意識のうちに話す人がある、と訴えてこられたことがある。
教師とは、自分が神からゆるされなければならない者だということを忘れているものである。

教師は、常に自分は教える立場にあり、それを自分は持っているのだという生き方を無意識のうちにしてしまっている。
自分こそゆるされなければならない者、自分こそ求めていかなければならない者、罪人のかしらであるということを知らない。

それは結局、聖書を自分に対して語りかけられたものとして読んでいこうとしないことであり、そこに問題がある。

聖書を読んでいく場合、自分自身ではなく、だれかに主が語られたこととして読んでいくことは、聖書を話として読んでいることである。
それを私に語られた言葉として読んでいかなければ、それは聖書読みの聖書知らずになる。

自分が関与せず、自己不在の読み方をしていたのでは、聖書のすばらしさもわからず、神の御言葉への驚きも生まれてはこない。

私たちに語られた言葉として聖書を読んでいくときに、はじめて自分が罪人であることに気がつくのだ。
そして私はイエスの教えにほど遠く、のろわれなければならないのは他のだれでもなくこの自分だということが示されていく。

ちょうど自分の目で見てまっすぐな線を引いたつもりでも、正しい定規をあてるとゆがんでいることがわかるように、イエスの言葉に自分を合わせていったとき、自分がなんとみにくい者であり、人の前に大きな顔をして出ることのできない人間であるかを知るのである。

そのように聖書を読んでいかない人は、自分は人よりも偉いとか、一生懸命やっているとか、聖書をよく読んでいるとか、祈りをしているとか、献金をしているとか、そういうことをいかにも大事なことのように思ってしまう。

しかし私たちがほんとうに打ち砕かれたとき、あなたのために来たのだという十字架の主の呼びかけが聞こえてくる。
そして自分が罪人であることを知るとき、イエスの十字架以外に救われるすべはないという姿勢になるのだ。

God Bless You!!


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