2021年3月5日(金)の手紙

2021年3月5日(金)


『その人たちはこようとはしなかった。』マタイによる福音書22章3節


14節までに記されている王の婚宴の譬え話は、元来二つあったものを一つにしたのであろうと言われている。

前半の8節までは、その当時のユダヤ人に対する警告として言われている。
せっかく神がイエス・キリストを遣わされたのに、人類の中で最初に招待を受け、愛されているユダヤ人が、それを受け入れようとせず、預言者の言葉に耳を傾けず、ただ自分のことだけ考え、畑に行ったり商売に行ったりしたことに対して、神の怒りがどんなに大きいかをイエスは語られたのである。

王が、このところで「食事の用意ができました」と言ったが、これは王なる神が手ずから食事の用意をしたということである。
また、「牛も肥えた獣も」とあるが、この牛は王がみずから大事に育てた牛であり、ほんとうに自分の最善のものをもって婚宴を催したのであるから、どうぞ来てくださいというのである。

私たちもこれを客観的に読むと、それほどまでにされたら招待を受けねばならぬと思う。
しかし私たちは、神が食事をととのえられた集会に対して、何を犠牲にしても出席しているだろうか。

人と会う約束があるとか、法事があるとかと言って、神が備えたもう餐宴としての集会に出席しないことが多いのではないか。

そういう点は、昔も今も少しも変わらない。

この譬えはユダヤ人にだけ言われていることではなく、私たち自身に言われていることである。
招かれた人たちも、王が私たちのためにこれほどまでにしてくださったことに対しては非常に感謝していたと思う。

しかしその一方で、彼らは、畑を耕すとか、商売をするとかという地上の生活があるから、心ならずも行けなかった。
だからもし招かれたら、自分を捨てなければ、招待にこたえていくことはできない。

この人たちは、自分を捨てることができなかったのである。

イエスは、「あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」と言われた。
私たちは、神から憎まれることよりも、人から憎まれたり、悪口を言われたり、村八分にされることを恐れる。

しかし、私たちはそれを捨てなければ神からの招待にこたえていくことはできない。
自分の立場を捨てなければ、神の招待を受けることができないところに、信仰の最もむずかしい点があるのだ。

「命に至る道は狭い」とイエスは言われたが、捨てるべきものを捨てなければ、天国に入ることはできないという厳しさをこの譬えは教えている。

God Bless You!!


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